思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

物で溢れかえった部屋に、良いことはない。

乱雑な部屋の中にいると、注意力が散漫になり、一体どこへ自分の意識を向ければよいのかが定かではなくなる。

頭が次第に混乱してきて、うまく目の前の事象を処理出来なくなる。


【目次】

人間は多くの物を処理しきれない

以前は、自分は不注意気味な性格だとか、物を失くしやすい、などと考えていたのが、それは自分の努力や意識の問題でなく、環境が原因であるのではと思うようになった。


世の中では断捨離や捨てる力といった類のものが流行っていて、単なるミーハー的な感じがしていたが、自分が実際に断捨離の必要性を体感してみることで、肌レベルで理解が出来た。

持ち過ぎた物に、利点はない

自分の脳で管理し切れない物理量を抱え込むことは、百害あって一利なしである。

いつか使うかもしれない、とか、買った時は高かった、などと言い続け、ただしまい込んでいるだけでは、部屋にデットスペースを増やしているだけのことにしかならない。

不要物をネットで売る

ネットオークションを利用し、物を売ることでお金を得られるので、お勧めはする。すぐさま売れるとは限らないが。
数ヶ月後に売れることもあり、また、ひどく安い値で落札されてしまうこともある。

だが、捨てるとなればゼロ円であり、また、リサイクルショップ等に持ち込んだところでタダ同然の値しか付けられないのであれば、仲介手数料の発生しない直接の取引のほうが、互いに気持ちが良いものであろう。

また、物を譲り合うサービスなんてのも存在する。オークションでは売れないが、まだまだ使える品であるし、捨てるには忍びないという場合は、ジモティー 無料の広告掲示板などのサイトを利用するといい。

乱雑な部屋は精神を犯す

物で溢れかえった部屋は精神衛生上、良ろしくない。
そもそも掃除もし辛くて、ホコリ溜まるし、換気も行き届かずに湿っぽくなる。
日々使う物なんて限られているし、衣類も決まった組み合わせや、お気に入りの服しか着用しないものなので、どんどん処分していこう。

部屋は寝る場所と割り切る

片付け途中で、自分の理想の形まで到達出来ていない場合は、日中は何処か別の所で過ごすようにするとよい。
カフェやファーストフード店、図書館やスーパーの休憩スペースやフードコートなど、低料金で、居場所を確保出来るところはたくさんあるので利用しよう。
特に周囲に知り合いがいなくても、外にいるだけで色んな人間を見られるし、その話し声や騒音が、自分に変化をもたらしてくれる。
人間は同じ環境であり続けることが苦手な生物なので、どんどん場所を変えていくと、心が安定する気がする。

最終的には、自分の部屋を帰って来ても落ち着ける場所にすることに励むことは大切だ。

過去の知り合いを、呼び戻さないこと。

過去の人間を無理矢理引き戻しても、良いことはない。

自分の元から去った相手を探し出して連絡を取るようなことはやめておいた方がいい。

関係性が終わったことに、意味はあったのだ。

生きる方向、思考の形状、が異なり、それ以上の関わり合いを持つことが困難になったことの表れである。


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去った人間の数だけ、新しい人と出会う

かつては、どれだけ親密な仲であったとしても、疎遠になっていくことは、頻繁に起こる。それは自然の摂理であり、わざわざ逆らう必要はない。何一つ、変化がなく、一定の環境を保ち続けるものは、この世に存在しない。

失った人間の数だけ、新たな出会いはある。積極的に自ずから働きかけることで見つかる関係もあれば、なにかの拍子に続いていくものもある。


人は成長し続ける

歳を重ねれば重ねるほどに、人は経験が増えていく。人は環境に支配され、どんな形にでも成れる。学生時代に仲睦まじく過ごした相手とでも、卒業し、それぞれの人生を歩んでいけば、その後の環境次第で、全く話が合わなくなることは多々ある。
そうなった時は、無理に付き合いを続けるのでなく、流れに身を任せていけばいい。


終わったものは戻らない

1度、終わってしまった関係を無理矢理修復したところで、その持続性はたかが知れている。
自分の記憶の中の相手を求め、また、その期待した反応を貰うことを待ち望んでいるとは思うが、そうなる可能性は低い。
絶望に面することとなるので、思い出は思い出として、残しておくだけに留めておくべきだ。

ネットから消え去りゆく人々。

この人には一生勝てないんじゃないだろうか。かつて、そう感じさせた人々は次々とネットから去って行った。

去って行ったといっても、本当は別の場所で名前を変えて活動しているのかもしれない。

しかしながら、突如として何の前触れもなく居なくなる人が本当に多いと感じる。

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消える人々

ブログ界においてもよくある。
ある日を境にピタリと更新が止まり、そして、数ヶ月後に「お久しぶりです!自分は元気です!」みたいな記事が投稿される。

「あ、生きていたんだ!!」よかった、よかった、と思ったのもつかの間、またすぐに行方をくらませてしまう。
そして、それ以降は2度と更新が行われないのだ。

なにが起きたのか。
誰かに、自分は生きているという証拠を残すために、1回だけ更新しろと脅迫されているのだろうか。この、1度更新をやめ、復活したと思ったら1回きりの投稿で、永遠に居なくなる現象は何なのだろうか。

今やってなければ、意味がない

以前、何かの番組でパンクロッカーの甲本ヒロト氏が次のような発言をしていた。

「どれだけ今までバンドを頑張ってきたと言っても、今やってなければ、居ないのと一緒」

確かにそうだ。
どれだけ才能があるとか、運が良いと言われたとしても、今やってなければ意味がないのだ。

継続することが1番大切なのだ。


今日読んだ、大槻ケンヂ氏の『サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法

この中にも、継続の重要性の話が出てくる。

サブカルで食べていくには、才能、運、継続が大切。才能、運は自分の力だけではどうしようもない部分が大きい。だが、継続は自分の力でどうにでもなる。とにかく続けることで、上手くいかなくても、中の中ぐらいにはなれる、と述べていた。

続けるには、情熱を持つ

崇高な理由までは無くてもいいとは思うが、何かを続けるためには、情熱が必要だ。では、どうやれば情熱を持てるようになるかといえば、自分の好きなことを選択することによって成し得るのだ。
これを世に広めたいとか、自分はこれが好きだからもっと沢山の人に伝えたいとか、そういう想いが大切である。

欲求を多く抱えているのは、若さの証し。


「何かをしたい、欲しい、食べたい」とかの欲求は若さの証拠なのかもしれない。

30歳を超えたあたりから、精神的に落ち着いてきて、特に強い刺激を求めることがなくなる。


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落ち着いた知り合い

以前は、買い物やグルメに非常に興味があった1つ歳上の知り合いの人と昨日会ったら、めっぽう欲求が衰えていた。

端から端までの、すべての服を買うくらいの勢いで、全て手にとっていた人が、もう全くもって何も買わなくなったと言っていた。

食事に関しても、何処何処に何々という美味しい店があるから行こうか、なんてしょっちゅう誘いを受けていたのだが、今は普通に近場のマックで済ませるくらいになっていた。

一通り経験し終える

30歳まで生きると、一通り自分の欲求を満たす周囲の物を利用し終えてしまうために、自分に何が必要だとか、使ってみても、こんなもんなんだなとかが分かってくるのだろう。

20代の頃のエネルギーというのは、まだ未知の分野や体験したことのない事象が沢山あるので、アレもコレもとなる。

だが、年数を重ねていくうちに、刺激が薄れ満足してくる。
簡単に入手できる、日常的な欲求から得られる喜びの価値はどんどん低下していき、飽きてくるのだろう。

セカンドステージは知の世界

ではその後は、何処へ向かえばいいのかという話になる。
それは、知的欲求を満たしてくれる方面に進むしかないんじゃないかと考えている。

お金には限界があり、支払えば満たされる欲求なんてものは、瞬間的であり永続性が無い。
そこから先はあまり、お金の掛からないゾーンへと突入していく。

自分の場合は、本やネットの文章を読んで、メモ用紙に自分なりの考えを書いてみたり、blogやTwitterで文章を載せていくことで欲求を満たしている。他人に認めてもらいたいという、承認欲求に近い感じもあるが、頭の中を整理したり、文章力を向上させたいという思いがある。

あとは料理したり、部屋を掃除したりすることとか、温泉にたまに行くとか、オフ会みたいなイベントで知らない人と話したりすることだろうか。

20代と30代では、結構変わる

「20代も30代も変わらない」「30過ぎてみても、20代の頃と中身は変わらないよ」なんて話を色んな人から聞いていたけれども、自分の中では、20代の頃の自分とは異なる人格が芽生えていっている気がしてならない。

あと、「30過ぎると体力が落ちるよ」という話に関しては、徹夜したり、休まずに遊びまわったり、酒をガバガバ飲むような生活が出来なかった、身体の弱い人間なので、変化が分からない。

文書の読み書きばかりしている。

文字の読み書きで、日々が過ぎていく。

日常的に作る文書は、誰かに向けた連絡のものでなく、個人的な閉じた言葉が多い。閉じたといっても、多少なりともは誰かに読んでもらいたく、Twitter、ブログ等を利用している。
仕事中、ふと思ったことを書く時には、小さなメモ帳を使用している。


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文書で時間をつぶせる

文書を作ることは、いい暇つぶしとなる。
なんとなく自分のなかで引っかかった言葉を文字に起こし、こねていく作業で、どんどん時間が過ぎる。

いつも似たようなことばかりを書いているにしても、延々と自問自答を繰り返すなかで、少しずつ己が何を言いたいのかが見えてくる。頭のなかで漠然と渦まいているだけであった思考がはっきりと見えてくる。

書くためには読む必要がある

文書を作成するためには、多くの文字・言葉を取り込まなければならない。
書籍、新聞、ネット記事、ブログ、街中の広告。あらゆる所から言葉を脳内に流し込み、混ぜ合わせていく。
何処から見つけた言葉だったかとかは全て忘れてしまうし、また、読んだ端から記憶が抜け落ちていく。だが、とりあえず頭に1度通過させておくことが大切だと感じる。

読み書きは疲れる

読み書きは、脳への負荷が大きく、また、集中力も要する。
日課的に繰り返しているはずなのに、いつまで経っても慣れないというか、ひどく疲れる。また、時間がどれだけ無限にあろうとも、足りなくなる。あっという間に1日が終わってしまう。

仕事に役立てたいとか、業務的な連絡文を作る際にアドバンテージを産める、とかを目算していた訳ではないが、副次的に日常の読み書きが功を奏している。

お金を遣わなくなる

買い物をしなくなったし、無駄な外出を行なうことも無くなった。暇になる、ということも無くなった。
以前はとにかく暇だった。予定の無い休みはどうやって過ごせばよいのかさっぱり分からなかった。片っ端から連絡し、誰か遊べる人を無理やり見つけて過ごしたりしていた。また、暇だからという理由で、遣わなくても良いお金を沢山遣った。

低消費生活を送りたいのならば、文書の読み書きをすることをオススメする。


考えることから人生は始まる

思考を放棄してしまっては、思慮は深まらない。分からなくても分からないなりに、自己の考えや意見を持つことで、物事は進んでいく。そこから人生が始まる感じがある。

そんな訳で、今日も読んだり書いたりをして1日が過ぎた。

じっとしていることが、苦手だ。


何事も飽きやすく長続きしない反面、本当に楽しめることに関しては、コツコツと小さな積み重ねをすることができる。

一気にババっとハマって試行錯誤はしてみるが、見切りを付けるのも早い。

これでは何も実績を残すことが出来ずに、スティーブ・ジョブズの言うところのコネクティングドットとは程遠いのではと危惧していた。

だが、何かの節に、過去の経験とかやってみたことがボチボチと役立つ瞬間も訪れる。

そんな折には、「何事も経験だね」と実につまらない一言を吐き出したくなる。


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「熱しやすく、冷めやすい」

学生時代より、頻繁に周囲の人から言われていた。
何かを始める時は、それこそ周囲を巻き込んでのスタートなのだが、辞める時は誰よりも早く立ち去る。そして、周りがようやく楽しみだした頃には別の物に熱中していた。

そんな感じに生きているので、とにかく1つのものだけに集中するということが苦手だ。
ちょっと作業を始めてみるも、すぐに別の物に意識が向かい、そっちを始める。

なんでも飽きる

1冊の本を読めない

これは読書においても言えている。
1冊の本をじっくりと読むことがとにかく苦手だ。手元には必ず、5、6冊の本を並べている。飽きた時、少し疲れた時に別の本を読めるためにだ。


飲み会や食事会なども飽きる

最初の1時間から2時間近くまではどうにかこうにか、気持ちを保てるのだが、それ以上は本当に無理である。1度意識が離れてしまうと、それ以降、周囲の人の言葉が耳に届かなくなる。曖昧な返事と相槌だけを繰り返し、また、早く帰りたいオーラを無意識のうちに発してしまう。

そもそも、誰かの話をじっと聞き続けることが出来ない

学校の授業ほどの苦行はなかった。
他人の話を黙って聞き続けることが出来ないので、椅子に座って黒板の文字をノートに写しながら、ひたすらに話を聞き続けるのが最高に辛かった。ほとんどボーッとしていたし、内容が頭に入って来ず、「何か言葉を話しているな」ということを認識するのが精一杯だった。

黙って聞く、受け身の授業は辛いだろうからと、たまに気を利かせたつもりの先生が、唐突に質問を生徒たちに降り始めるのも苦手だった。頭が一切稼働しておらず、そもそも何をしているかを把握してないレベルなので、その質問の言葉の意味が全くない分からないことが多々あった。

複数のタスクを同時進行しなくとも、幾つか用意しておくのがベスト

何か1つをじっと作業する(とくに興味関心が一切無いものについて)ことが、困難なので、ちょっとでもやりたい別のことが心に出てきた時にそちらに向かえるような環境を作っておくのが、ある意味集中力を保てるのではと思っている。

受験勉強などに関しては、1つのことを粘り強くやらねばならないので、勉強以外のタスクは排除せねばならない。
だが、そこまでに制約の強いものでない場合は、あっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返しながらでいいと考えている。

自分は本を読みながら、ネットで調べものをして、今後の予定をメモしながら、ネットオークションの出品の準備をしたりしている。あとは、部屋を片付けて、料理をしながら、メールの返信をしたり、ブログを書いている。食品の買い出しに行き、図書館で本の返却を行い、古本屋で100円棚を漁る。

何もしない、ということが苦手

そんな感じに常に何かをしながら生活しているので、なんというか心休まる時があるない。いや、別に好きで動き回っているので嫌になる瞬間とかは無いのだが、「何もしない」ということの難しさを感じる。
自分は多動症の一種なのだろうか。

人はたいしたことをしなくても、忙しさを感じるし、充実感を得られるものだ。

仕事の話しかしない、同僚たち。


自分の仕事の話に興味が持てない。

職場のほとんどの同僚は、もっぱら仕事に関する話題ばかりを休息時間にも話している。
会社の方針や、勤務形態や、休憩時間の量について。そんなにも仕事が心底好きな人しか、いないのかと驚かされる。
職場にいるあいだは仕事のことしか話さずに、プライベートな話題は一切のぼらない。

【目次】

仕事以外にしか興味がもてない

自分は、全くもって話に面白みを感じることが出来ず、本の世界にばかり向き合っている。アメリカのドラッグ事情。ナマズの生態。ホモ・サピエンスの歴史。なるべく自分の日常からかけ離れた世界を堪能し、いわば"現実逃避"に近い行為をとっている。
ただ、逃避行為といっても、辛い現実から目を背けるためという訳でなく、本を読む方が刺激的で面白いと思えるからだけのことだ。

自分の時間を売っているだけ

嫌なことも確かにあり、辞めたいし、そもそも働きたくないと感じる瞬間もある。
だが、企業に属することは、自分の時間を切り売りし、それをお金に換えているだけなので、別にあれこれ議論せずとも、就業を迎えれば家に帰れる。

その会社内では大事件だったとしても、外部の人間から見れば、「それがどうしたの?」という様なことで大騒ぎしている。

本当は取るに足らない些細な出来事も、大袈裟に見せかけることで、「大変なことをしている」「自分は凄いんだ」と自己暗示をかけようとしているとしか思えない

そんな感じに生きた人が、会社の肩書きを失うと共に、人生の目的も無くしてしまうのだろう。

誰かの作ったルールの中で生きているのを自覚する

決められたルールや、枠組みのなかで生きているに過ぎないのに、それが世界の全てだと思い込んでしまうのは、どうも視野が狭いとしか言えない。
少しばかり業務内容に変更が出たり、制度が変わるだけで、天変地異が起きたごとく右往左往してしまうのだろう。

どうせ自分以外でも務まるよう代わりの効く仕事をしているのならば、そのことを自覚した上で割り切って生きていくほうが気楽だ。
プライドが高いのか、自己重要感が強いのか分からないが、変に自尊心を高め過ぎするのも良くないのでは感じる。