読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

思考拡張日記。

読者と料理とネットが趣味です。

NAVERまとめと、ブログについて。

最近、久々にNAVERまとめを更新していた。

NAVERまとめは、自分の実体験や個人的な見解を必要としない。

淡々と情報を集めるだけ

あくまでも「まとめ」なので、ネット上で見つけてきた情報を再編集するような感じである。機械的な作業で済む。

ブログを書くときとは違った楽しさがそこにはある。

なので、NAVERの記事を作るのも、ブログを書くのも、両方好きである。

ブログは、リアルから作っている

ブログには、ネットから拾ってくる情報はあまり載せる気になれない。
ブログでは、自分が現実の世界の日常で見たことや感じたこと、思ったことを書くようにしている。
なので、ゼロから構築していく感じがあって面白い。部屋にこもってネットをやっているだけでは作れない。
ただその分、自分のバイアスが強く掛かっているので、世間一般から見て正しいと思える情報や考え方を提供できるかは別物である。

ネットの世界は現実から構築されていく

バイアスどうのこうのいっても、ネット上にあるモノは全て現実の世界から持ち込まれるものなので、どんな情報にも個人の偏り、フィルターが掛かっていることには違いない。

なので、ネットで何かを調べる際には、盲信してしまうのでなく、あくまでも1つの意見として捉えるようにしておいた方が無難だ。

1つの事象に対しても、あらゆる条件が偶然に重なって1つの見解を導いたに過ぎず、その時、その時で、結末が異なることを理解しておこう。

ひとり旅を初めてしたという話。

場所が変われば思考も変わるのかも、ということでひとり旅をしてみた。

ひとり旅は、人生で初。

予定を立てる必要もなく、何もしなくてもいい気楽さがある。

元々、全ての行為が誰かとのコミュニケーションツールに過ぎないので、食事も、観光も興味がない。

昼ご飯はコンビニのオニギリで済ませたし、夜は吉野家で済ませた。
特に食にこだわりが無いので、そんな味気ないものでも気にならない。
とにかく安ければいいや、という感じだ。

宿泊したのは、以前から気になっていたホステルのCITAN。
CITAN -Hostel, Cafe, Bar, Dining | 東京、東日本橋のホステル&バーダイニング
東日本橋にある七階建てのビルが丸ごと宿泊施設になっている。
宿代は、3,000円ほどでとてもリーズナブル。
ドミトリーで8人部屋とかだから、やすい。

宿のチェックインが16時だったので、それまでは適当に時間を潰していた。

ブックカフェに行ったり、ブックオフに行ったりしていた。やっていることはいつもと変わらない。

チェックイン後は、受付の人に何か近くにありますかと尋ねてみて、人形町の方へ歩くことにした。


桜がいい感じだった。


最初は世界湯という銭湯を目指して歩いていたのだけれども、途中で面倒になった。世界湯 : 中央区 東京銭湯マップ

微妙に小雨の中だし、宿にシャワーがあるので、別途料金を払って風呂に入らなくてもいいかなと、なかなかケチくさい思考に落ち着いた。


1時間ほど、ふらついて吉野家入って食べて、道端でたい焼きを買って食べた後に、宿に戻った。



バーが地下にあり18時からオープンとのことで、一応行ってみた。

僕はお酒が苦手だし、興味もないのだが、バーなので酒を頼む。
サワーを一杯注文し、カウンター席に着くと、店の人と話して、後は結局本を読んでいた。
読んでいたのは、SF映画ブレードランナーの原作、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))』。
SF作品を楽しめる人は、なんだか知的で良い、みたいな印象を以前から持っているので、たまに挑戦している。
だが、基本的にあまり作品の世界のなかに入り込めず、単に文字をなぞっているだけのことも多い。これも割とそんな感じかな。

少し知らない人と仲良くなれたらいいなと思っていたが、CITANは普通に知り合い同士で来る感じのところであり、あまりゲストハウス的な感覚は無かった。バーも近所の人たちがグループで来ていた。
やはりもう少しこじんまりとしていて、店の人と宿泊客との距離間が近い所に泊まることにしよう。



まとめとしては、ひとり旅は気楽だなということ。

せっかくだからといって、何かをしなければならないわけでもなく、何もしなくていい。
食事もひどく雑でいい。
その割には非日常的であり、普段の生活とか、仕事のことを少し忘れさせてくれた。
場所を変えれば面白いことを書けるのかな、なんて思っていたが、なんか満足感から逆に何も書く気になれないということも分かった。




またいつか、何処かへ行こうかな。

久々にただの日記を書いた。

現状維持が大好きな大人たち。

大人は時間が無いという嘘。


【目次】

変化を面倒だと思う人々

やれることは限られてくるし、学生時代みたいな自由が少ないので、新しいことに挑戦も出来ない。全ては老後の楽しみに取っておきましょう。
なんてのは、どうかと思う。

現状を維持するのが好きになり、変化を面倒としか思えなくなったに過ぎない。

未経験のことへの挑戦はいつだって可能だし、訪れたことのない場所への移動だって、学生時代よりもお金の問題により解決が付きやすい。

学習の放棄

また、長く生きた経験から、お金の遣い方も徐々に学習できてきているので、無駄なことへの消費活動は減ってくる。ダラダラと暇を潰すための支払いが1番自分の首を締める結果を招くことを理解することが、大切。

行動を起こせなる全ての原因は、頭を遣うことの放棄である。

子ども時代の学習は、学びの基盤作り

とにかく頭を遣うことが嫌になってきているのが、よくない。

学習活動は子どもの務めであり、大人になれば解放されるとの間違いがよくない。

子ども時代の学習は、学歴のためにあるだけでなく、「将来、自分の頭で生きていくための、基礎体力作り」であると、僕は考えている。

となれば、頭を遣うことなく生活することは、大人ではない。




ただ日々の仕事をこなして、単に休日はお金を消費して生きていけばいい、と思っている人々が大半な世の中において、学習の意味を改めて考えているような人はマイノリティである。

これは又とないチャンス。

学習の真の意味を理解すること

時間が無いという嘘。
大人になれば勉強しなくていいという嘘。
休日は遊んでいさえすればよいという嘘。
会社から言われた資格の勉強さえしていれば、それが学習だと思っているような間違い。


それらの人々を圧倒的なスピードで追い抜かして生きていこう。

世の中はよくなっていっていると思う。

テレビと新聞を見なくなったら、不幸ニュースに触れる機会がなくなった。

世の中はどんどん悪い方向へ流れていっているみたいな感じの印象を以前は持っていたりしたのだが、テクノロジーは日々進歩しているし、色々なものが安く手に入れられ、無料の娯楽がどんどん溢れてきているし、生きやすくなっているんじゃないだろうか。

肩書きとか地位とか学歴といったものも、少しずつ無効化してきているし、自由に将来を選択できる世界になってきていると感じる。

なのであまり将来を悲観し過ぎずに、なんか大丈夫だろ、と生きていこう。

パソコンを触らなくなった。

最近、パソコンの調子がイマイチなのでほとんど起動させてない。
もう一カ月以上まともに使用してないのではないだろうか。

どうせ利用法としては、文書を作ることだけなので、もはやスマホ1つでも事足りることには足りる。
フリック入力ならば、正直なところパソコンのキーボード入力に劣らない速度が出せる気がしている。

はてなブログを書くのにも、スマホのアプリがなかなかに優秀であるから不都合はない。

たまにキーボードを打ちたくなる

ただ、時たまキーボードのガチャガチャとした入力音と手触りが恋しくなる。

大学時代は夜な夜なパソコンにかじりついて、明け方まで遊んでいた。
一晩中、ガチャガチャ言わせて過ごしていた。

もうそのような生活に戻ることは生涯ないだろう。

いま現在の過ごし方としては、中心軸が"読書"という行為に集約されてしまっている。
ネットの利用は、読んだ本のリストを整理したり、読みたい本の書評を読んだり、著者の情報を調べたり、関連書を探っていくといったことばかり。他には、本を読み終えたあとに、自分の中にモヤモヤと出てきた感情を言語化する作業くらいなもんだ。

スマホ1つで事足りる

スカイプで友だちと通話しながらゲームをしたり、ネット配信動画を見ながらコメントを打ち込んだり、自分も配信したり、くだらない画像や動画を収集したりという、一連の遊びとは別れを告げた。


今は片手に収まるスマホ1つで自分のインターネット事情が済んでしまうのは、なんだか寂しくもある。

スーパーの弁当が、好き。

Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」

ひとり飯。ソロ飯。

外でご飯を食べる時は安さしか追求しない。
基本的にはスーパーで弁当とバナナを一房買うよにしている。
スーパーに行けば、だいたい本日の特価品みたいな弁当が安く売られているので、それを選択する。
炭水化物オンリーでなく、肉とか魚とか野菜が入っている弁当をなるべく選択するようにはしている。
ただ、基本的には、食に一切のこだわりが無く、安くて少しは栄養が取れそうな食事ならば何でも良いと思っている。

バナナはデザートとして最強だ。
腹持ちが良い上に、量に対して値段が安い。最近は幾種類ものバナナが売られているが、一番安価なやつを買う。

そして、駅前のベンチとか、図書館の外の休憩スペースとかで食べている。
外でぼーっと景色を見ながら弁当を食べる時が何だがすごく幸せだ。

たまに店で食べる時は、牛丼屋に入る。
ここでもこだわりが無いので、1番安いシンプルな丼を選択する。

前はハンバーガー屋に行って100円のバーガーを買ったり、パン屋でアンパンを買って食べたりが多かったのだけれども、それを食事一回にカウントするのはなんだか、身体に良くない気がしてやめた。

やっぱり1人で外で食べるならば、スーパーの弁当が1番好きかな。



Sponsored by Netflix

カフェは、自分の存在を消せる空間。

カフェにおいての試験・資格勉強、読書、仕事の作業などが、なぜ自宅よりもはかどるのか?という議題に対しての、明確な答えを持てないまま、ずっときていた。

そんななか、たまたま、本日読んだ『人が集まる「つなぎ場」のつくり方 都市型茶室「6次元」の発想とは』のなかに、腑に落ちる解答が載っていた。


【目次】

カフェは、自己の存在を消すことができる

読んだあとに、メモを取ったわけではないので、正確な文章を記憶はしていないのだが、上記のようなことが書かれてあった。
これは盲点であった。そうか、自分を消せるから落ち着くのか。
周囲の人間の雑音、カフェのBGM、などの要素により、自分までもがそのノイズの中の一部となる。それにより、焦点を、作業の対象物に向け続けることが可能となるのだ。


自宅は自己を意識してしまう


自宅であれば、自己を強く意識してしまう。あれこれと自分にまつわることを考え続けるうちに悩みや心配がふつふつと湧き上がってきたりする。
自分だけの世界に入り込み過ぎることによって、効率性は低下していく。


これまでは「なんとなく少々騒がしいほうが集中出来る」くらいのことしか考えていなかった。

他には、「誘惑が少ない」とかも挙げられる。
自宅であれば、漫画を読んだり、寝転んだりと、どこまでも堕落してしまう。
また、家事という無限に出来る作業が存在するので、何かをやり始めてしまえば、どんどん時間が経過していく。掃除したり、不要物をネットで出品したり、ご飯の準備をしたりなど。


大勢のなかの1人という、居心地の良さ

多数の人間か存在する空間に身を置くほうが、気が休まるというのは分かる。
仲間同士で集まる時も、サシで集まるよりも、複数人のほうが気が楽だ。
だが、あまりにも長時間、乱雑な場に居続けると段々とシンドくなってくる。
そんな時は家に帰って1人でゆっくりしたりして、一旦リセットする感じがいいのだろう。


自分の存在を消したり、意識したりの繰り返しで生活する


集団のなかに身を置き、自己意識を薄め、日常の風景の一部に過ぎないと思ってみたり、1人の空間で精神世界に潜り込んでみたりの繰り返しで生きていくのが良いのだろう。


なんだか、少し話がずれてきてしまったが、カフェがなぜ落ち着くのかが分かって良かった。


人が集まる「つなぎ場」のつくり方 都市型茶室「6次元」の発想とは

人が集まる「つなぎ場」のつくり方 都市型茶室「6次元」の発想とは