思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

いつでも体調が悪いです。


いつだって疲れている。
体調が万全は日が実に少ない。

なにかしらのドーピングが欲しいくらいだ。
だが、自分の体内で生成できる回復物質以外を無理に取り込んだとろこでその後の反動が大きそうで嫌だけれども。



その日の気温にまず左右される

暑過ぎても寒過ぎてもダメで、日差しが強い日もダメ。
雨の日などの低気圧にやられる人々もいるけれど、それはあまり分からない。

適切な睡眠時間が分からない

一体何時間寝れば快適に動けるのだろうか。
平均睡眠時間は5、6時間だろうか。
それ以上寝ることがあまり出来ず、自動的に目が覚めてしまう。
10時間とかでも寝ていられるみたいな人たちが羨ましい。。。

何をするにも目を遣わ無ければならないのがしんどい

自分はネットをしたり、本を読んだり文書を作ったりするのが趣味なのだけれども、どれも目を遣わなければいけないのがキツイ。
目を使うことなく作業出来たらどれだけ楽だろうかと思ってしまう。

最悪の場合ばかりを想定してしまう

起こりうる可能性のなかで一番悪い結末を思い描いてしまう。
リスクヘッジ的な意味ではそれでいいのだろうけれども、たまにそのイメージに引き摺られ続けてしまうことがある。
そうなると正直、ストレスになり、心身へのダメージが蓄積されていく。
完全なるストレスフリーを求めて生きているのだが、なかなかにその実現が難しい。

長時間、他人と過ごすのがしんどい

長い時間、誰かと共に過ごすのがだるい。
全くもって気にかける必要が無いくらいの相手ならばいいのだけれども、仕事場となるとそうはいかない。
一回り以上、歳上の社員たちに気を遣わなければならない場面は多々あるし、休憩室が全員同じ所というのはきつい。
まあなんにおいても、望んでもいない介入をされ続けたりするのが心底嫌いという感じである。



体調が万全だった頃はどの様に過ごせていたのだろうか。
その頃の気分をさっぱり思い出せない。
若い頃時は身体が軽かったのだろうか。
20歳の身体を思い出してみたい。


おわり。

生活にルールを入れよう。決断エネルギーを貯金するために。


1日のなかで人が決断をする回数は約9,000回もあるようだ。

人は一日9000回の決断をする! "決断疲れ" を避けるための3つの方法 | コラム

京大法学部の学生がそう書いているからそうなのだろう。(権威などに弱い)


そんなにも脳を酷使していると、絶対的に疲労をしていくと思うのでなるべく決断回数は小数に留めておこうと考えている。

そのためには、生活のルールなるものを決めておくことがいいと感じる。

といった話を、先日読んだ『無敵の思考 ――誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21』で書かれていた。
著者は元2ちゃんねる管理人のひろゆきだ。

先ほど9,000回と書いたが、コロンビア大学の教授が調べたところ、人は1日に選択できることは70個くらいしかないそうだ。
圧倒的に足りないじゃないか。。。

ひろゆきが、情報を入手して選択するということは、かなりエネルギーが要ることだと述べている。自分もそう感じる。

なので、自分が決めたルールを並べてみたい。


選択肢を減らすためのルール


カフェインを絶つ

身体への負担が大きいなと感じていたカフェインの摂取をやめることにした。
飲むと頭痛がしたり、身体の節々が痛むことがある。
あと、とにかく寝付けない。夕方頃に飲んだはずなのに明け方まで眠りにつけない。
自分にとっては百害あって一利なしとなったのでやめた。サヨナラ、カフェイン。


炭酸飲料を絶つ

学生時代には、コーラなどの甘い炭酸飲料をよく買っていた。
買っていたといっても、一口飲んだら飽きていたために、捨てるか誰かにあげていた。
そんなことしてまで無理に飲む必要はないなとおもったのでやめた。
緩くなったコーラを飲んだ時の、気持ち悪さも苦手である。こんな砂糖の塊を口にしていたのかと驚嘆した。


アルコールを絶つ

アルコールをやめた。
元々嫌いだったのだが、大二病的なものに罹り、ガハハと笑いながらビールを多量に摂取できるアナーキーな若者になりたいなと思い、飲み会にいそしんだ。
また、酒を飲めるのはカッコいいとかモテることだと勘違いしていた。
あと、その頃は極端に人見知りだったので、酒の力で乗り切ろうと頑張っていた。
ある時、シラフのほうが頭がクリアに働くし、身体もすごい楽じゃん。という事実に気が付き、呑むのをやめた。


1人では外食をしない

食事をするならば自炊で事足りる。
というか、自炊でもしなければ栄養に偏りのない食事を摂ることができない。
低価格で食べられる食事は炭水化物が中心だ。
また、外食は他人とのコミュニケーションツールとしか思えない。
そういった理由により外食を1人ではしない。


買い物をしない

買い物をするのは本当に必要に迫られた時か、誰かの為である場合がほとんどだ。
自分の欲を満たすために買う物と言えば、書籍くらいだろうか。

基本的には図書館で済ませているのだが、新刊となると自分で買うのが手取り早い。
時間がある時はブックカフェなどで読み終えてしまうのだが、仕事が続いている時は、通勤の行き帰りで読むために買っている。

当たり前の話になるが、買い物をしないという選択をすると色々と楽になる。
まず、お金が減りにくくなる。
また、買うかどうかについて検討する時間や手間が一切無くなる。
僕は物を買うという行為に凄くストレスを感じるので、買い物をしない生活はとても良い。


服を減らす

ミニマリストではないが、洋服の数は少なく留めておくのがいいと思う。
何を着るかで迷う必要が無くなるからだ。

服を買うなら、捨てなさい』をこの間読んだけど、凄く共感できた。
同じ種類の洋服を複数持っていたところで、結局、1番お気に入りのやつしか着ないんだから何枚も持つ必要はない。

学生時代は毎日の様に違う服を着ることに情熱を燃やしていたけど、今となってはどうでもいい。
そんなことを頑張るよりも、きちんと洗濯して綺麗な状態にして着るなどに気を遣ったほうがいい。
清潔感を保てれば、何を着ててもいい。


決断を減らすと、自由時間が増えた

何も考えないでいい時間が増えたというか、決まったワークをこなすだけでいい作業的な生き方ができるようになった。
ここまでに挙げてきた例は一部に過ぎなくて、ほとんど無意識レベルで習慣化させていることは、こまごまとある。

大きな決断に遣うエネルギーを貯めておけるようになった気がする。
それでも、心が折れてしまったり、逃げ出したくなることはよくあるけれども。

そんな人生。



おわり。

ブログはたいしたものじゃない。



ブログをするならば毎日更新しなければならないだの、字数は千文字以上は書かねばならないだのと、偉そうに御託を並べてツラツラと語りかけてくるやつらは多い。

そんなものを一つ一つ信じて実践しようとするから、ブログを書く行為に嫌気がさしてくる。



単なる生活記録であり、大げさな意味はない

ブログを通して自己表現を行い、有名になりたいだの何か形を残していきたいだのと夢を語るのもいいが、そんなものは書き方一つでどうにかなるものではない。

そもそも、どれだけ面白い経験や情報を持ち合わせているかということだけが大切だ。

ネットで調べても得られないような話、興味深い経験を語れるかに尽きる。

それこそ、どれだけ文章が下手で読みにくかろうとも、人は面白いと感じれば読んでくれる。

気取った言葉を並べ、出来る男を演出したところで、中身が伴ってないのであれば見向きはされない。


では、特殊な経験もなく、誇れる学も技能もない場合はブログをしたところでどうしようもないのか?

どうしようもなくはない。


とにかく考え続ける

何か1つの事象に対し、あれやこれやと、しつこく思考をこねくってみるのがいいのではないか。

そこから結論が生まれなくとも、どれだけ考え続けたかのプロセスが大切であり、そこに何か興味を持ってもらえればいい。

また、そうやって考えてみることは実に良い習慣た。
何でもないと思えることを深く観察し続けるその眼を養うことが出来るからである。

その習わしが身につくと、危険に対する感度が高まる。
あらゆる未来を想定することが出来るようになり、危機的な状況を回避できる可能性が高まる。

その観察眼を育てるのにブログは役立つ。

継続が大切

とにかく続けることが大事である。
続けてみて分かることと、分からなくなることがある。
そういったものは、誰かに教えてもらったところで納得には至らない。
自分で経験してみて初めて理解できる。



おわり。

なんとなく続けられる趣味を持つと、生きやすくなる。



気力が薄れてきても、「なんとなく続けられる趣味」みたいなモノを幾つか持っておくと生きていけるなと感じている。


別に趣味とまで言わなくとも、気が付いたらやっていることであったり、それに向かい合っている時に心が安定してくるみたいなコトである。

そんな趣味を見つけるにはどうしたらいいのだろうか。



結果を求めない

見返りを求めて何かをやり続けるのは、しんどいし、嫌気がさしてくる。

例えば、自分の場合は読書が趣味なのであるが、決して読書でお金を稼げるようになれると思っていたり、知識を多く持てるようになると考えているわけではない。

ただ、日常では知り得ないような、不思議な体験をしたいだけのことだ。

お金のことばかり考えていては、きっと読書をとっくにやめてしまっているだろう。

無理に継続させるために、勉強に逃げ続けるのはよくない

まずは何事も下準備が大切だと、勉強に逃げる人が多い。
例えば、絵を描けるようになりたいと思った時に、わざわざ絵画教室に通い始めたり、通信講座を受講しようとする人がいる。
他には、料理を出来るようになるために、料理教室に通い始める人もいる。

そういった「勉強」に逃げていては、いつまで経っても、なんとなく続けられる趣味には成らない。

勉強としか捉えられなくなるからだ。

幼い頃に好きだったことにヒントあり

人は少しずつ変化をしていくし、考え方や物事の見方は変わっていく。
だけれども、幼い頃に好きだった遊びはいつまで経っても、好きであることは多い。

自分は読書と絵を描くことと、文章を書くことが好きだった。

それは今でも同じである。

それらは、ストレス無く継続することができる。
そういうものを見つけていけたら、生きやすくなる。

お金になるかどうか、日常生活で役立つかどうか、といった事ばかり気にする人が僕は苦手だ。

もっと、楽しいかどうかだけを考えてみたらいいのに。


おわり。

働く日数を減らしていくと、職場が遠い世界に感じてくる。



ここの所、本格的に働いていない。

必要最低限の出勤数のみで、あとはバンバン年休を取得して自由に過ごしている。

そういった日々なので、実に収入は少なくなっているのだが、どうしても働きたくないので仕方がない。

職場が遠くなってきた

あまり労働をしないようにしていると、職場が遠い世界のように思えてきた。

所詮は1つのコミュニティでしかなく、その中でのルールやしきたりなんてものは、外部の世界にとっては何ら影響力もなく、無関係であると気が付けてくる。

年数を重ねて、自分よりも下の社員が増えるに従い、地位が向上していっているかのような錯覚におちいるが、そんなものは幻想に過ぎない。
役割として与えられているのかもしれないが、それがその人自身を形成しているわけではない。

辞めてしまえば、ゼロになる

仮に、仕事をすぐにでも辞めてしまえば、その役割なんてものも何も意味を無さなくなる。

肩書きや地位にこだわる層にとっては、恐ろしいことだろう。


個人的な能力を開発していく

職場や仕事に頼るのでなく、自分自身でスキルを身に付けていくことで、肩書きや地位に囚われてしまうことはなくなる。

何をやって自分は誰かを喜ばすことが出来るか。
何を作り出す事が出来るか。

そういったことを考えてみる。

働く日数を無闇に増やすだけでは、奴隷になっていくだけ

休日返上で働き詰めたところで、会社にとって都合のいい人間にしかならない。
ようやく休日が訪れても、日頃のストレスや疲労を回復させるために、お金をガンガン使ったり、死んだように寝て過ごすだけになってしまう。
それよりも、自由な時間を少しでも増やして、新たな挑戦やこれまでに挫折したことを再チャレンジしてみたりといった、遊びに集中する方がいい。
少なくとも、自分はそう感じている。



おわり。

悩みをコロスしかないので、そのやり方を書いた。



朝は精神的に堕ちるようになった。

色々悩みがあるのは事実だけれども、悩みを持つという状態は常にな訳で、今に始まったことではない。

だが、それがここ1カ月くらいは、強く降りかかってきている気がする。

誰かに人生を支配されているような。
考えなさい、自由にしなさいと言いつつも、影で動かそうと必死な姿が見えてくる。憎悪でしかない。


心の安定を図る方法は幾つもあるし、それを活用してどうにか生きていくしかない。

自分がこれまでに試したことを思い返してみよう。

悩みを殺す方法

問題解決に向けて、可能なことを少しでも行う

兎にも角にも悩みを潰すしかない。
別のことに逃げてみたとろこで、精神の安定は測れない。
直接的な解決に結び付かなくとも、その糸口になるようなことであれば行っていく。


本を読む

本の力は凄い。悩みに潰されそうになっている時は、視野が極端に狭くなっている。その視野を広げてくれるのが本の世界だ。
読書で、これまでに幾度も救われてきたし、ギリギリのところで踏みとどまれた。
いや、崖から落ちてはいたが、ロープで引き上げてもらった感じかもしれない。


寝る

死にたいくらいの絶望を迎えた時には、睡眠に寝るのがいい。
意識を失わせることが一番だ。
疲労からくる、精神的不安を取り除ける。
また、時間が解決してくれるような問題である場合は、早く寝てしまって、時の流れを加速させるのがいい。


何かしらの形で内面をネット上に発表していく

文章を作る、絵を描く、悩みを相談する。
なんでもよいので、自分を出していく。
誰にも見られなくてもいいし、うまく出来なくても、なんでもいいから、出していく。身体の毒を排出していく感覚に近い。


逃げる

あとは、全力で逃げるということだろうか。
自分がしたくないことから、逃げる。
関わりたくない世界から、逃げる。
見たくないものは、見ない。
知りたくないことは、知らない。
挑むよりも、逃げほうがいい。
精神をすり減らしてまで、生きなくていい。
逃げることの出来る環境を構築するために、怠けてはいけない。



おわり。

興味のないことに、努力はしなくていい。



興味のあることにしか努力が出来ない。

めちゃくちゃ単純なことだったり、初歩的な情報だったりしても、興味を持てないと頭に入ってこない。頭に入ってこないというよりも、入れる気がさらさらない。

「これを覚えておかないと死ぬ」くらいに、自分の生命と直結でもしない限りは、記憶力を使う気になれない。

なんでも覚えておこう教が嫌い

とにかく暗記することを、めっぽう褒め称える人たちがいるが、なんかどうも受け付けない。不必要なことまで記憶する努力がもったいないし、その場で情報を確認しながら作業出来る環境であるのならば、それを利用すればいいだけのことではないだろうか。

試験勉強ならば、頭に情報を無理にでも詰め込んでおかなければならないが、そうでないのならば、その都度確認をしたらいいだけのことだ。

なんだか、その辺りのライン引きを上手く出来ない人がとにかく多い気がしている。

無駄な暗記をしている人を褒め称える風潮

そんなことまで覚えていて凄い!
みたいな感じがどうも苦手だ。

どんどん忘れてしまっていいし、忘れた分だけ新しいことに挑戦したり、何か面白いことは無いかなと、頭を動かしてみるほうがいいんじゃないだろうか。

今はインターネットを利用したら、すぐに答えを得られるし、また、メモ書きを利用するなりで、情報をすぐに引き出せる環境だけ整備しておけばいい。

暗記凄いの人たちは、ネットに慣れてないおじさん世代が多いと感じる。

頭の容量を有効活用

記憶を留めておくことは、結構面倒だ。
とにかく頭の中で、何度も何度も思い返すことが必要とされる。
ただ、身体で覚えてしまえば、頭を遣わずに勝手に反応するようになるので、頭の容量を使わなくなるが。
長期記憶が壊れてしまい、新しい情報を習得できなくなった人の話を読んだことがある。記憶に留められるのは30秒間だけという、本当に今この瞬間のみを生きていることになる。『ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯
しかし、新しい事実を全て記憶不可能になったかと言えばそうでは無かった。身体で覚えたことに関しては、記憶になくても自然と対応出来るようになっていたそうだ。


生きていくうえで暗記すべきことは、他人の名前くらい。

試験勉強などを除いてしまえば、真に暗記を求められるのは、他人の名前を覚える時のみであろうか。
常時、名札を全員が付けているような職場であれば、覚えなくてもどうにかなるのかもしれないが、そうはいかない。
名前も覚えいないということが相手に知られてしまえば、間違いなく不快に取られる。誰だってそうだ。
一切、自分に関心を持っていないということが判明するからだ。

知識で頭を固めていくと、ガチガチになる。

知識に頼り過ぎていると、頭の固い人間になる。
何に対しても情報のみで対処しようとする。
規則やルール以外のことを考える力が不足してくる。
とても洗脳しやすい状態と言える。
常識という言葉に人生が支配されていくだろう。
そうなりたくなければ、考える力を養うことが大切だ。
そのためには、自分はどう感じたか? 自分ならどう判断するか?
という、自分軸をしっかりと打ち立てていくべきだ。


興味のあることだけに、全力でいく。

興味のある分野を持っているのなら、それに向かって全力でいけばいいと思う。
少しも面白いと思えないことや、嫌いなことに努力を費やしてみたところで得られるモノはわずかでしかない。
それよりも、好きなことの知識をどんどん吸収していくべきだ。
その方が、間違いなく効率的である。

好きでないことに対しては、余計な努力は捨てて、必要最小限の暗記力でやっていこう。