支離滅裂な言葉•文章を繋げ続ける小説を読むことが苦痛でしかない。
小難しい表現や世界観を産み出すことにより一部のサブカルチャーマニアを喜ばせ、俗に言う「分かる奴には、分かる」という位置付けを狙っているのであろうか。
ネット上で多大なる評価を得ている作品を読んでみたのだが、何のことについて語っているのかまるで分からない。
自分の理解力が乏しいのではと悩んでみるも、そうではないとの結論に至る。
まずそこにスートーリー性というものが皆無なのだ。
かろうじて情景を読み取れそうな単語が幾つか並んでくるも、すぐに明後日の方向にぶん投げられる。読む速度を落とせば分かるとか、そういうものでない。
最早分からせる気など皆無なのである。
「分かる奴に分かればいい」どころか
「俺の崇高な頭脳を理解されてたまるか!」という著者からの圧力さえ感じてくる。
納得されてしまっては、作家生命が絶たれてしまうと考えているのでろう。
「なんや。。なんか分からないが、とにかくすごい!天才だ!!感動したぞ!!」
と絶賛されてえびす顔なのである。
「なんだこれ、全然だめ。時間の無駄でしたよ」なんて言ってしまう人は鼻で笑われる。
「はんっセンスがねえなあ。まあしょうがない。住む世界が所詮は違うってことよ」と見下されてしまうのだった。
批判なんてするのは誰にでも出来る簡単なこと。自分の分からないものは全てダメだと言うような人間は底が浅くかわいそう。本当にカワイソスと後ろ指を指されることとなる。
そうなると、
なにを言うか。分かるにきまってるだろ!と
「ナニカワカラナイガ、コイツァテンサイにチガイない教」に入信するのだ。
だが本当に幾ら頭をひねろうとも分からないものは分からないで仕方がないことであるし、引け目に感じる必要もない。
外出時、唯一カバンに忍ばせた本がそのような作品であった場合、苦渋を舐めることとなる。
話題になっておるし、間違いないでっしゃろ、と買ってみたのが運の尽き。
いざ、読み始めてみればすぐに睡魔に襲われる。
苦行。苦行。ひたすらに苦行。
ただとにかく文字を眺める作業となる。
センスがないのか?私にはセンスがないのか?だから面白くないのかと自問自答を繰り返す。
自分の感覚を確かめるために、スマートフォンを操作し、インターネット上の書評やら感想文、評価を見てみる。
素晴らしいと書いている人間がこんなにもいるではないか! 批判している者どもは隅っこにおいやられ無教養者の烙印を押されている。
自分はそうはなりたくない。教養人であるに違いない。
これまでに一体どれほどの書物を手に取り、読み込んできたかを思い返してみればそれが分かるはずだ。
そう自分に言い聞かせ、踏ん張って最後まで読み終えることを目標にすすんでいく。
書店のブックカバーなど不要である。私はいま偉大なる挑戦の最中なのであると、それを周囲に誇示するため、表紙がよく見えるようにと高く掲げ読み進める。
なんだか凄い本を読んでいるんだな。と思われることが至高であり、活力となる。