思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

本を読んでいて、気になった言葉たち。

本を読んでいて面白かったり気になったりした言葉はiPhoneのメモアプリに書き写すようにしている。
あまり深く考えず、条件反射的に。

何の本から写した言葉なんだっけ?とすっかり忘れてしまっているものが大半だし、あまり見返してもいない。

最近、写したものを幾つか貼り付けていきたい。

犬族全般にあてはまることだが、彼らは基本的に人糞が大好物である。

1つ目から衝撃的なやつ。
これは、最近読んだ『極夜行』のなかの一文。
著者は冒険家の角幡唯介氏。
これは世界最北の小さな村シオラパルクから出発し、極夜を4カ月間も歩き続けた冒険の記録書だ。相棒に犬を一匹連れて行くのだが、途中で2人とも餓死の危機に幾度も陥る。そこで、犬は角幡唯介氏のうんこばかり食べることになる。そのシーンで出てきた言葉だった。

幸福への近道は、自己の欲望を制御することにある

これは何からか忘れたが、本当にそう思う。
幸福を満たすために求め続けていくと、上限なんかどこまでも見つからない。
人間の欲望にキリはない。
日頃から満足度を低く設定しておくことで、ちょっとしたことで幸福になれる。
例えば、自分は面倒な時はシャワーで風呂を済ませてしまう。だけど、きちんと湯船にお湯をはって入ったりした時は、すごく幸せな気持ちになる。

自分がどういう方向に変わりたいかを自覚して、変わりたい方向に影響を与えてくれる人や物を自分の周りに置くようにすれば、なんとなく自然に理想の方向に近づいていくことができる。

自分がやってみたいことや知りたいことがあれば、その道の人たちが集まる所に行くのが一番だ。1人で努力することには限界があるし、そもそも気持ちが続かない。進みたい方向が定まっているのならば、それに即した環境に身を置くようにするのが良い。

ちょっと調べて情報や知識にアクセスすることさえできれば、今の状況から抜け出させてくれる手段や、別の人生の選択肢があることを知ることができるのに、知らないままで苦しんでいる人が意外と多い。

世の中、知っているか知らないかで、損をすることはめちゃくちゃある。
分からないから、面倒だからと放置してしまって思考を停止させていると、無駄なお金を払い続けることになったり、余計な労力ばかりかかる羽目になる。
今は簡単に情報にアクセスできる環境が整っているのだから、少しでも調べていくクセを付けておいたほうがいい。

自殺願望があって今でも死を見つめながら生きているって言ってて、見ると確かに手首に無数のナイフの傷跡があるんです。でも、部屋に青竹踏み健康器具が置いてあったのには笑いました。

これはAV監督のバクシーシ山下氏の書籍だったかな。『セックス障害者たち (幻冬舎アウトロー文庫)』だと思う。色々と病んでる女優や男優が出てくるのだが、この話が一番印象に残っている。自傷行為をするほどになっていながらも、健康器具を使っている。その一見矛盾している感じがとてもいい。

人でも生物でも、自分が知っている世界だけが世界のすべてだと思う。自分に見える世界だけが世界のすべてだと思う。知らないものをないといい、見えないものをないという。

自分の理解の範疇を超えているもの、よく分からないという理由で目を向けることもしないもの。そんなものが沢山あると思う。自分も新しいことに挑戦するエネルギーが枯渇しているので、同じような日々ばかり過ごしている。だけれども、そのままだと自分が見えるものだけを世界の全てと考えてしまうようになるんじゃないかなー。

技術の蓄積よりも、好奇心の強度のほうがはるかに大切。

最後にこれで締めくくりたい。もっと膨大にあるのだけど、今回はとりあえずこれで。これは、編集者の都築響一氏の本の中に出てきた言葉だ。
人生で一番大切なのは好奇心だと思う。
好奇心無くしては、新しいことに挑戦出来ないし、そもそもそれを始めるキッカケが得られない。
技術なんてものは、好奇心があれば幾らでも後からついてくる。
面白いと思ったり楽しいと感じて、無心に取り組んでいる間に身についてくる。
まずは技術を身につけてからとか、準備ばかりしていても何も始まらない。
少しでも気になるのであれば、後先考えずに突き進むべきだ。




メモのストックはまだまだあるので、また書きたいな。

ゲームをすることで、現実世界をうまく生きていけるようになる。


ぼくはあまりゲームをしない。

昔は、暇だからゲームをしていたけど、心から楽しんでいたかといえば、そうでもない。
どちらかといえば、ほかにすることがないからゲームに興じていたなという感じがある。

なんで、やる気があまりなかったかといえば、キャラクターが育っても自分とは関係ないなという考え方にある。


だけど今は、ゲームをすることで現実を楽しく思えるんじゃないかとか考えるようになった。




頑張っても自分は育たない

昔は、どんなに頑張っても自分とは関係ないみたいな気持ちがあった。
ゲーム内のキャラクターのレベルが上がったところで、自分のレベルが上がるわけでもないし、いくら良いアイテムを入手したからといって自分が手にするわけではない。
どれだけゴールドを稼ごうとも、現実の自分の資産が増えていくわけでもない。

そもそも仕事みたいに面倒な作業が多くあるために、なんだか純粋に楽しめない。

めんどくさいな、同じようなことの繰り返しばかりで、とか1度考えてしまうと、そのゲームからは手を引いてしまうことが多多々あった。


異世界に旅行する気分でやる

だけれども、現実世界では体験出来ないようなことをバーチャル空間に精神的に入り込むことで、疑似体験できる装置なんだよなと考えるようにすることで、多少は楽しめるようになった。
一時期流行った、なろう系の小説じゃないけど、異世界に移り住んでみた気持ちでプレイするのがいいのかもしれないと思うようになった。


制約のある世界

異世界という非現実的な空間とはいえども、結局はプログラムで組まれた世界の中でしか自由に動くことはできない。
オープンワールドゲームは、自分のやりたいことを好きに出来て、シナリオ通りに動かなくていいとか自由度が高そうではあるけれども限界はある。
プログラムされてないことは、出来ない。
現実だって色々と制約はあるにはあるが、選択肢は無限に存在する。


ゲームをすることで、現実を見る目が変わる

最近思っているのは、現実世界を漠然と生きていくよりも比較対象としてゲームの世界を知っておくといいなということ。

現実なんて何もない、退屈だし辛いだけみたいなことを考えてしまうこともあるけれども、気持ちに余裕を持たせて、視野を広げてみると、いくらでも楽しいことが見つかる。1度も挑戦したことのないことがそこら中に無数に転がっている。
例えば、料理1つ取ってみてもネット上にあるレシピを全部作ることは数がありすぎて不可能だ。
1度も訪れたことのない場所は国内だけでも無数にあるはずだし、参加したことのないイベントやライブとかだって無限にあると思う。

まあ、選択肢が無数にありすぎて、逆に選べなくなるということは大いにありうるけど。

なのでゲームのなかで、選択肢が少ない空間でトレーニングしてから、現実世界をうまくプレイしていけばいい。

日常のなかに小さな喜びを。

日常が消費されていく。

自分をどこに向かわせていけばいいのか分からない。

漠然と日々は過ぎていくし、色々とその瞬間に思うことがあったり考えたことがあったり、感じたことはある。

それをどう切り取って、どう伝えていくか。

それを少し考えているうちに色あせていって、まぁもういいんじゃないかなそれは、とか言って明日になっていく。

その繰り返しの中で、生きている。


誰かと交わした言葉、もう戻らない生活。
二度と会うことのない誰か。
記憶に残る景色、景観。

沢山、自分の中には蓄積されている。
それを改めて言葉にしてみようと思わなくて、そのままにしているだけ。

目の前のやるべきことに自分を消されていく感じがある。
限られた時間や体力のなかから、どこを目指して活動していくべきか、見極めていかねばならない。


仕事で自己実現をすることを最優先するという人生もありだろうし、趣味に生きるのもいいし、何もしなくて、ただ寝てばかりいるだけでも食べ続けるだけでもなんでもいい。

何を最優先したいのか、どこへ向かいたいのか。
それを定めてしまうことで行動に制約が出てしまう場合もある。
自分には合わないと思う行動パターンは排除してしまい自由に動けなくなる。
その繰り返しで、退屈な人間になっていく。

やりたいことはなんでもやって、やらなかったという後悔だけはしたくないし、興味が少しでも持てたなら調べてみるべきだし、行ってみるべきだ。

面白いものを見つけたり、知ったりしたならば、それを誰かに伝えて、知を共有していく。

消費されるだけの日常のなかに、わずかな喜びが産まれると思う。

他人を知りたければ、自分で予測するのでなく、直接話を聞く。

他人の内情、心理を予測してみることは、無駄な行為ではないかなと思うようになってきた。

心理学とか哲学とかコミュニケーション術みたいな自己啓発系のものを読んで精神世界の話を知っていくなかで、きっとあの人の本心はここにあるのではないかとか、表情から読み取れることはとか、声のトーンからとか、ごちゃごちゃと考えながら生きてきたが、そう無理に難化させる必要はない。

相手の言ったことだけを見ていけばいいと思う。

直接相手と会話をして、その人が発した言葉のみを真実と捉えていってしまうくらいでいいのではないだろうか。


行間を読む。
言葉や文章で表現されていない不透明な要素を読み取ること。

この力の必要性をずっと考えてここまでやってきた。
だが、その読み取る力が、どれだけ成長したと自分なりには思っていても、まったくもって見当違いであることは多々ある。

結局は自分で勝手にストーリーを組み上げていくだけになり、真実とかけ離れていってしまう。

なので、機械的に、プログラムの指示文のように表現されていることのみを追っていくほうが、正確な情報を結果的には得ることが出来るのではないだろうか。余計な労力をかけることもなく。

ここまでの話は、悪意のある嘘や、陥れたり、出し抜こうという方面の会話は考慮に入れていない。

あくまで他人を理解するうで、自分の予測を優先して先入観を固めていくよりも、相手の語る言葉のみを真実とみていくという方がいいかもしれないという話である。

時間と心に余裕を持たせて、生きたい。

体力や気力がすり減ってくると、何か新しいことに挑戦するエネルギーが湧いてこなくなる。
生活と離れたことや非日常的なものに目が向かなくなる。

目の前にあることだけに意識が全て奪われてしまい、生活だけでいっぱいいっぱいになる。

そうなってくると人生に彩りがなくなってしまい、楽しいことなんて何もない、ただ同じルーチンだけの日々、つらい。とマイナスな気持ちが強く現れていく。


口から出る言葉も半径5メートルくらいくらいの話題ばかりだし、仕事で役に立つかどうかばかりが目的になっていく。

無駄なことは極力排除していきたいみたいな、退屈さが際立っていく。
そうなってくると、なんだかつまらない人生だなって思う。

まだ未経験の面白いことには挑戦したいし
、新しい刺激が得られそうなイベントとか、場所にはなるべく訪れたい。
興味を惹かれるようなユニークな人の話も聞きたいし、関わったりしたい。

その気持ちを枯れさせないようにするには、なるべく働く時間を減らすしかないなと自分の場合は思う。

職場の人間と同じ空間にいるだけで、めちゃくちゃ疲れるし、たいした仕事をしなくてもげっそりとしてしまう。
心身共にボロボロになるまで働くのは向いていない。
気持ちに余裕を持たせて、自分なりの面白い世界を構築していきたい。
そのためにも、出費は極力抑えたいところ。
お金を遣えば遣うほどに働かなきゃいけないから。
少ない収入でも豊かに生きるには、無駄なものは全て省くしかない。
余計なストレスは抱え込みたくないし、望んでもないことでイライラもしたくない。

完全に働かなくていい状態になることが一番の理想だけど、何をどうしたらいいのか全然分からないし、そのビジョンを思い描くことが出来ない。


面白いことが出来ている人間は総じて、時間的にかなり余裕がある状態だなと感じている。
時間の余裕が、心の余裕にもつながっているし、興味の赴くままに挑戦もできる。

現実というオープンワールドをうまくプレイしていきたいなー。

10代の頃、全てが不自由だった。

子ども頃、とにかく食事の時間が嫌いだった。

食卓につけば、学校の勉強のことについてとやかく言われ続けるからだ。
食事が始まるとすぐに全てを胃に流し込んで、食事を作業の様に終えるようにしていた。

その頃の影響からか今でも食事に興味が無いし、そもそも面倒だとしか感じない。
作る楽しさには目覚めたが、食べることは割りとどうでもいい。

基本的に自分の部屋に閉じこもりっきりで10代を過ごした。

インターネットの回線も引かれておらず携帯電話も持っていなかったあの頃。

僕が部屋の中で出来ることは限られていた。

多量に買い込んだ漫画の山を何度も読み返すこと。
漫画の気に入ったキャラクターやシーンを模写すること。
小説を読むこと。
短い物語を自分で書いてみること。

休みの日に誰か友だちと遊ぶということも数える程にしか無かった。

全てが無気力で、何の才能も結果もなかった。

勉強も出来ず、スポーツも出来ず、女の子にモテることもない。
ないない尽くしで、自信を持つことなんて生涯無理だろうくらいに潰れていた。

その頃の自分は、居場所が無くて孤独を感じ続けていた。
どこにも馴染むことが出来ず、本当に心を許し合える友人を持つことも出来ない。
とにかく苦しかった。

それでも、懸命に日々を生き抜いていたと思う。

今は、あの頃に比べれば明らかに幸せだ。

辛いことや苦しいことや、嫌なこともそれなりにはある。
完全にストレスゼロの生活を迎え入れることはできていない。

だけど、自分の頭で考えて、それに従って行動を取るという生き方は出来るようになった。
それだけでも自由が得られた気がしている。

過去の自分を否定しても、それも自分の一部だったわけで、消し去ることはできない。
また、消し去ろうと考えることは間違い。
人生は過去からの不断の一本道であり、色々と遠回りしたり立ち止まったりしながらも、続いてきている。

その頃に感じたことや、思ったこと、見たこと、聞いたこと。
それらの要素が絡み合って、今の自分が形成されている。
何か1つでも欠けていたら存在していないのだろう。

そう考えるようにすると、無駄な時間なんてものは無かったことになるし、どれだけ地獄の苦しみを味わったとしてもそれが今に活きていることになる。

自分に無い物だけを追い求め続けてきた。
出来ないことばかりを見つめてきた。
出来ることや知っていることは、役に立たないことばかりで何の意味もないんだと絶望していた。

だけど、そんなことを言い続けて1人で過ごしていても、何も変わらない。
そう考えてからは、あらゆることに挑戦し、あらゆる人間に会ってきた。

それでもまだまだ足りないなと思う。
世の中には面白いことがもっとあるはずだし、それを知らないまま生きていくことはもったいない。

10代のころに辛かった理由は、世間を知らなすぎたということ。

目の前の現実しか知らなかった。
もっと外があることを考えてもみなかった。

学校が全てだったし、家が全てだった。

大人は、親と学校の先生しか存在していなかった。

無知であることは、本当に辛い。

今も十分に無知だけど、無知であるという事実をしっかりと理解出来ている。

当時は、無知であることをも理解出来ていなかった。

人生の限り在るリソース。時間、体力、生命。
それをどう遣っていくか。
それを考えていきたい。

インターネットに文章を書くことは面白い。

インターネットで無限に情報を追いかけていると、どれだけ時間があっても足りないなと思う。

見ても見なくてもいいものばかりといえば、そうなんだけど、何か気になるものを1つ見つけるとそこから関連していって別のことにも興味が出てくる。

そんなに調べているなら、それをまとめ直してブログとかに文章として発信したらいいのかもしれないけど、そこまでの熱量は出てこない。

ライターとか、文章を生業として生きている人は、そういうことが苦にならない人たちなんだろうな。それどころか喜びでしか無いのかな。

かくいう自分も何かしら書くことは好きで、日記をネット上で書き続けることで心の安定を図ってみたり、気分転換に用いてはいる。

文章を作ることは特別な才能も必要とされないし、誰でも出来てしまうという手軽さがあるのに満足度は高い気がする。お金もかからないし、たまに反応を貰えてコミュニケーションもできるし、読んだ人がそこから何か思うところがあれば派生的にもなって面白いなと思う。

詩人の最果タヒさんが、ネット上の発言は川に投げ込んだ小石の様なものといった話を書かれていた。引用してみる。

ネットで公に何かを発言することは、だれかの自己表現の踏み台やソースになりにいくことだよ。コミュニケーションなんて期待しちゃダメだし、むしろそういうのが楽しくないと辛くなるよ。
湖に落とした小石のように波紋を生むだけで、跳ね返ってはこないインターネットが好き。

これにはすごく納得させられた。
的を射ている解釈の仕方だなと思う。

直接的にはレスポンスを得られなくても、そこに確かに存在しているし、それがどこかで何かに繋がっていくみたいな不透明感やその曖昧な距離感がネットの魅力なのだろう。

面白いな、インターネット。