思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

音楽を聴きながらの作業が出来なくなりました。


好きな音楽を聴きながら、本を読む。
音楽を聴きながら作業をする。

こういった同時進行のことが苦手になった。

どちらか一方に意識がいってしまう。
音楽に耳を傾けると、本の内容がびっくりするほどに頭に入ってこない。
文字を追っているはずの目が、文字をおえていない。

むむむ。いつの間にこんなに不器用な人間になったのだろうか。

以前は、音楽は常に垂れ流し状態だった。
いってしまえば24時間聴いているといっていいほどだった。寝ている間も、イヤホンを片時も離さず聴きながら寝ていた。
しかも、メタル音楽というヘヴィなもので、よくそんな音で眠りにつけたなと感じる。

今はダメだ。
本を読めないし、こうやってブログを書くこともできない。
なぜなのだろうか。なぜ、もっと気軽に聞き流すことが出来なくなったのだろうか。

その時、はたと気がついた。
それは、ここ数年の激烈な読書中毒症状による弊害であることに。
本を片っぱしから読み片付けることに命を燃やし始めて以来、言葉の世界にどっぷりとはまるようになってきた。それが原因だ。

それまでは、言葉なんてものを意識したことがなかった。音楽を聴いていても、歌詞なんてのは、音の一部でしかなく、全く持って耳に届かなかった。
だが、言葉を頭が認識するようになったため、音の洪水の中の、言葉をしっかりとくみとってしまうようになったのだ。

それが故、音楽を聴くと、何かに語りかけられ続けている居心地の悪さを覚えるようになったのだ。
また、音そのものも、言葉であるように感じるようになった。
言葉は、元々音の組み合わせでしかなく、それを互いにコミュニケーションを取れるよな形に作りあげたに過ぎない。
そうなれば、コミュニケーションを取れない、非言語の状態であろうとも、組み合わせによっては伝達能力を持ち合わせている。
それが頭に入ってくると、本を読んだり、文章を作ることが出来なくなってしまう。

なんだろう。犬や虫の声が、言葉に聞こえるみたいな、ちょっと危ない話にも似てくるかもしれない。だが、そういった感じに似ている。

よって、自分の中の情報処理速度が追いつかなくなり、どちらかに意識を向けざるを得なくなったのだ。

なんとも不器用な人になったものだ。

こんな感じで生きていると、なんでも変に分析しようとしたり、他人が何とも思ってないことを頭の中でグルグル反芻して、牛の胃袋のようにアッチコッチに運んで、ゆっくり消化していく人間になってしまいそうだ。いや、現になっているのかもしれない。