言葉を取れない瞬間というのは多々ある。
身体が疲弊し、頭のなかにカスミが掛かり今いち眼がハッキリしない時など、書くことは難しい。
書いていけば言葉は出てくる。書けない時に、机に向い言葉を作っていくことが大切だ。それが文章を生業としているもののあるべき姿だ。そう伝えられたことがある。
だが、そういう時に出来た言葉が、自分の深い部分へ刺さっていくかと言えば、刺さらない。
だが、文章はあくまでも読者の存在を意識したものであり、自分へのメッセージではないので、そこに自分へのアプローチのみを含むのは間違った配慮である。
しかしながら、心からの言葉が作れていない時は、ひどく薄っぺらな表現であったりとあまり響くものがない。
響くものを作り出せる時は、しっかりと言葉が取れている時だ。
さて、言葉はどこから出てくるのだろうか。
頭の中から出てくることは分かっているが、どうもそこだけでは無いような気がしている。
そもそも、文章を作成している時の自分を客観視してみると、あまり頭が働いていない。
頭のなかで言葉を整理して並べて、それを文字にしているというわけでない。
指先から、耳から、眼から、身体のあらゆるところから文字が出てきている。
自動筆記装置ではないが、ほぼ無の状態より出てきている。
作家とは、訴えたいものを多く抱えた人たちであるとのことは、かつての常識であった。
その常識を打ち破ったとされる作家がいる。それは村上春樹だった。
彼は、訴えたいものが何も無く、伝えたいことも何も持っていないとの発言をしている。
では、何を書いているのか。何を読者に渡そうとしているのか。
それは自分が先ほど述べた自動筆記装置的な感覚により、文章を作成しているに過ぎないのだろう。
何も書いたことのない自分と村上春樹を並べるのは実におこがましいことであるが、きっとそうだ。
これを常にうまく起動させるのは難しい。
その時の気分や感覚に実に簡単に左右されてしまう。
これをうまく操れる法を自分のなかに見つけ出せた時、文章を作ることで生活していけるのだろう。