仕事で使用する以外でパソコンを日常的に使っている人口は減ってきているのではないだろうか。正直なところ、スマートフォンさえ持っていればパソコンですべき作業のほとんどの代用が効く。どうせ皆、パソコンでたいしたことをしていなかったのだから、さほど困りはしないのだ。
ブログを書くにしても、スマートフォンアプリは大変便利なものが開発されているので、パソコンを使う必要は無い。
ただ、スマートフォンで文章を書く場合と、パソコンを使ってキーボードを使用する場合ではいささか塩梅は異なる。
パソコンで書くほうが気合が入るというか、長めの文章を作る気になる。
あと、全体を見渡しやすい。スマートフォンで書くと見える範囲が狭まれるのでどうも全体像が見えにくい。場所を問わずに作業出来るのは素晴らしいが。
人生嫌なことがあったり、しんどいことがあっても文章を作っていると気持ちを紛らわすことが出来る。
文章を書くことが好きでよかった。小説を書くようになればもっと気持ちがいいのだろうか。
とりあえず現時点では何となく頭に浮かんだことやら日常の無意味なことを書くことで満足している。
世間一般のことに全然興味関心がないために、なんだか気の利いた話題を提供できない。記憶力もすこぶるに悪いので、見聞きした話もすぐに右から左へと駆け抜けていく。
見た。感じた。聴いた。知った。
其の瞬間の感覚が好きなだけで、知としての記憶には関心がない。
覚えることに興味が無い。
駆け抜けていく瞬間が心地よく好きだ。
なので、あらゆる事物をもっと自分のなかに流し込んでいきたい。
自分のなかに流していった量が少ない人間は精神的に浅いと思う。
相手を思いやる気持ち、つまり想像力がひどく貧困である。
精神的に豊かでありたい。
偉そうな話であるが、僕の良さに気がつける人間ってのはある程度の教養がなければならないと思っている。
教養とは知識量の話ではない。
さきほどの、自分の中にどれだけ物を流し込めたかの話になる。
流し込んだ後に底が抜けていることに気がついても問題はない。
知識をストックする必要はないと考えているからだ。
ストックしていくべきなのは試験だけだ。試験勉強じゃないのだから気にしなくてよい。
政治も経済も分からなくてもいい。関心がなくてもいい。
人間的に豊かであるかどうかは、そんなことは問題ではない。
その事実に気が付けない人間が教養の無い人間だ。
とりあえず僕の良さに気がつくためには千冊くらいは本を読む必要があるだろう。
ところで今回は、スマートフォンでブログを書くよりも、パソコンで書くのもいいもんだみたいな話をしようと思っていたのだ。
それが、最終的には僕の良さに気付くには本を読めよみたいな話に終着した。
いいんですそれで。