思うに、文章を書くというのは、自分の中である程度終わっているもの、ある程度一段落しているものについてしか書けない。本当に何かの真っ最中にいるときは何がなんだか分からなくてそれどころじゃないからだ。
phaさんの2年前のエントリを読んでいて、確かにと頷けたので記事にした。
ある程度の解決が付いてきた事象に対してしか書けないという感覚は強く持っている。
そして、書く、つまり客観的な視点から言語化しようとする行為は、終わりかけてるものをはっきりと終わらせる効果があると思う。何かを書くときは大体自分の中の何かを終わらせるために書いている気がする
まだ自己解決に至ってないモノは、本当に何がなんだか分からずに、もがいている状況なのでどう判別を付けていいのかが分からない。
【目次】
何度も書くことで理解を深める
自分の頭のなかでゴチャゴチャと考えているだけでは本当の意味での終焉を迎えることが出来ず、何度も重ねて書き下すことにより、その状態に近づけていく。
終わりが見えれば見えるほどに、理解も深まる。
その自分なりの解が真実かどうか、世間的判断と照らし合わせて、良いと言い切れるかは別として、ひと段落は付けることができる。
知を共有し、他人に考えてもらう
自分が言語化することにより、そのテーマに対して他人に考えてもらうことが出来るようになる。
言葉にせず、頭のなかに留めているだけでは、広がりがない。
こうやってインターネットを通じて、表に出していくことで、他者の介入が起こりうる。
前回書いた記事に対して、りんぬさんが文章を作ってくれた。
アビさんの記事に感化されたので私も書いてみました!
— りんぬ*はぐるま (@tZvRXApFpNr0GP8) 2017年2月8日
私の知り合いだった女の子は、人の彼氏をけなしてまで自分の彼氏がいかに素晴らしいかをアピールしてました…
なんか悲しいですよね…😢
https://t.co/ISKvXb0Fk8
自分では見えないことも、見ることが出来るようになり、同じテーマに対しても様々な視点を持ち得るという事実を改めて認識することが可能となる。
吐き出せば吐き出すほどに、新しい思考が入ってくる
人間は生きている限り、悩みな不安、分からないことは無限に広がり続け、終わりは決して見えない。
それはいいことであるが、悪い面もある。
悩みの数が増えれば増えるほどに、思考の領域は狭まれ、堂々巡りとなる。
終わりを迎えさせる、成仏させる、ために言語化を続け、なるべく古くなった思考は捨ててしまうことが良いと感じる。
捨てた分だけ、新たなモノが入ってくるので、終わりは結局見えないのだが、そうやって生きるほうが生きやすいと思える。
言語化に最適なのは、ツイッターでなく、ブログ
ツイッターのほうが短い文章で済ますことが出来るので、手軽さは強い。
しかし、ブログのほうが文章化する体力をつけることが出来る気はする。
論理立てた構成展開を考えねばならないし、間違った言葉遣い、表現を用いては他人に伝わりにくくなる。伝わりにくくなるというか、読んでもらえなくなる。
なので、ある程度の真面目さというか、几帳面さが求められる。
どんどんブログを書いて、脳内をデトックスさせていこう。