思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

10年くらい連絡を取らないことが普通になってしまった。

昔の関係をふと思い出すことがある。

前回も書いたが夢の中で突如現れたりとかで。

全く連絡を取る手段がないわけではないが、大抵の場合、10年とか15年が経過している。

気が付けばそんなに過ぎていたなんて…。


連絡したところで、今更何も話すことはない。

お互いにもはや共通項はなく、記憶からほぼ消えてしまった古ぼけた話題と、どうでもよい当時の知り合いの今の話を聞くぐらいしかない。

そうなってくると大概が、マウントの取り合いになるんだよな。

終わった関係性は今の自分には不要であり、それを再度手繰り寄せたところで、何も得られない。

急に懐かしみ連絡を取ったところで、相手も同様の懐かしみを感じているかは分からない。

静かに暮らしたい

夢のなかには過去においてきた人格だとか人間関係だとか、もしかしたら起こりえた別の人生だとかが再現される。

それが潜在意識なのか、なんなのかは分からない。

だけど、起きているときに考えていることや見ているものとは全く違う世界で切ないような、なんとも言えない気持ちにさせられる。



大切なものを沢山失ってきたような、捨ててしまったような。





人生はせわしなく、いつも目の前に「やるべきこと」や与えられた義務が存在する。



その外部からの圧力によって、自分の意思とは関係のない日常を過ごしている。




もっと静かに、ゆっくりと生きたいと思ってもその実現は難しい。

なんの利害関係もなく、損得勘定もない頃がよかった。

【感想】『書くのがしんどい』を読んだら、書きたくなった。

書くのがしんどい



書くのがしんどい
』読んだ。

書くのがしんどいので、役立った。


よかったところを書く。

まずは思いついたままに書く

まず下手でもいいから、何も気にせずダーッと伝えたいことを書きなぐる。そして、そのあと冷静になって「編集者」の立場で文章を見直して、整えていく。

最初から完ぺきを求めない。
頭に浮かんできたままに書く。
文章の見直しは書いた後。


「書く」と「編集」を分ける

人は文章を「ゼロから生み出す」のは難しくても「すでにある文章を修正する」ことはできます。  ほとんどの人は、他人の文章を見て評価することはできます。

他人の文章の指摘は簡単にできる。

自分のは文章は難しい。なぜなら書きながら修正しようと考えてしまうから。

よって、一度書き終えてから見直していく。

まわりのことを書く

自らコンテンツを生み出そうとするのではなく、まずは他人のこと、まわりのことを発信しようとすればいいのです。

なにを書こうか?
自分のことを書こうとしてもネタはすぐに尽きる。出てこない。

ならば、まわりのことを書く。

例えば、僕はいま『書くのがしんどい』について書いている。

伝えたいネタがあるから書ける。

ネガティヴはいいこと

実はネガティブから始まるコンテンツは、いいコンテンツになる可能性が高いです。なぜなら「本音」だからです。本音には熱がこもっています。


ブログを書きたくなるのは、怒った時や不安になった時。
ネガティブな感情がスタート。

たしかに本音だ。


書く前に考える

「書く」前には「考える」というプロセスが必要です。しかし多くの人はここを見落としがちです。考えながら書こうとするから手が止まってしまうのです。  ポイントは「考える時間」と「書く時間」を分けることです。


考えながら書こうとしていた。同時並行。

著者は、紙にプリントアウトして情報を整理しているという。

この手は使えそうだ。


どこから伝えたいか。
どのような順序で話をすすめるか。
を考えるために。


メモを取る

「これって、意味あるのかな?」と思ったら、メモをするなりしてきちんと覚えておきましょう。違和感があってもそのまま受け入れてしまうと、それは自分の「常識」になっていってしまいます。すると「取材マインド」は消え失せます。

日常の「何だコレ?」をメモする。

みんな常識だと思っているけど、僕はそう思わない。というものがあればメモ。


「がまんして働くのが常識」
に違和感があるとする。

がまんせずに働く方法は?

と考えてみると、それもネタになる。

おわり

書くのがしんどい』、いい本だった。

読むと勉強になる。

ツイッターの使い方も学べる。
今回は書かなかったけど。

男はつらいよの寅さんの魅力。

男はつらいよシリーズを最近観ている。


男はつらいよの主人公、車寅次郎の魅力について考えてみた。

寅さんはダメな人


行商の旅からふらっと、実家のだんご屋に戻ってきては騒ぎを起こす。
で、結局は怒ってまた旅に出たり出なかったり。
迷惑な存在であることは間違いない。

だけど、本当に嫌ったり憎んだりされているわけではない。
皆に心配されている。戻ってきた時には喜んでもらえている。

旅先で出会う女性たちからは好かれる。
優しく、欲のない人物だからだろうか。

誰にでも分け隔てなく接し、すぐに仲良くなれる。人間的魅力のある人物だといえる。

ヤクザものと言われるように、その日暮らしで、あてもない露天商売で過ごしている。
どこから仕入れてきたのか分からない怪しい商品を並べて。


出会う女性たちは、その自由さに惹かれるのか。
自分をよく見せようと変に取りつくろったりせず、真正面から関わっていくその姿勢を好むのか。


優しさから身を引いていく

寅さんのその不器用さ、口下手な感じは好感度が高い一方で、肝心のところですべてをふいにしてしまう。

相手のことを本気で想うがゆえに、自分なんかではダメだと逃げてしまう。

相手が間違いなく自分に好意をよせていることに気付いていながらも、相手が1番幸せになる道を選んでしまう。
いわば、自分を犠牲にしてしまう

視聴者側としては、なぜここで逃げてしまうのか?
もったいじゃないかな、と歯がゆい思いをすることになる。

だけど、それが寅さんの優しさなのだ。





全50作を鑑賞し終えるにはまだまだ時間が掛かる。

どれも同じストーリー展開であり、どこから観ても楽しめる。
だけど、前半の作品のほうが寅さんに勢いがあり若々しくある。なので、最初のほうから観ていくことをオススメする。

まずは、第1作目を観てみるといいんじゃないだろうか。

これが1番面白いと今でも思っている。

男はつらいよ HDリマスター版(第1作)

男はつらいよ HDリマスター版(第1作)

  • 発売日: 2014/12/17
  • メディア: Prime Video

ものごとを深くとらえること

表面的な浅いところでものごとを捉えていては思考は深まらず、先には進めない。

わかりやすく、価値があると思わせてくら単純明快なことにだけ食指が動いているうちは二流であるといえる(何が?)

何の意味があるのだろうか、それが何に繋がるというのだろうか。
目では簡単に見ることのできない関係性を己の感性にて発見していけるようになることは大切である。
しかし、そのことをどれだけ伝えようとしても伝わることはない。

誰でもすぐに理解でき、即効性のあるものだけを消費したがる。
回り道であったり、時間のかかることを苦手と考える人が多すぎる。

正解がなく、自分なりの解を見つけることを不得意としている。
分からなくても考え続けねばならない。
これは慣れの問題である。

例えば、人に好かれるにはどのような行動を取ればよいのか。
会話を円滑にすすめるにはどのような順序を踏めばよいのか。
これだけでも、あらゆる知は必要とされる。
その背景には様々なジャンルの情報であったり、思考パターンが活用されている。

間合いの取り方であったり、言葉の選び方であったりと細かな配慮が必要とされる。

表面的な浅いところのみでは、そこまで会話の質を深堀は不可能といえる。

人との会話は、本を読む行為と同様といえる。相手をどれだけ読み解くかがキーとなる。
誰とでもそれなりに話ができてしまう人は、その辺の扱い方が長けている。
これは社交性の問題ではない。

どのようなことにでも立ち止まり、考える習慣を持つべきだと伝えたい。
その思考の訓練が、人生を切り拓いてくれることは確実だといえる。

ブログを自分のために書いてきた。

自分に言い聞かせるためにブログをかつては書いてきた。

新たな習慣を身に染みさせるためであったり、新たに知りえたことを再度自分に説明するためであったりなど。

しかし、今はもうそういった欲求がない。

特段、自分に語りかけたいことがなくなってしまった。

書いたりする暇があれば、先に実行に移してしまうようになったからかもしれない。

何かきになることがあるならば、すぐにでも始めてしまえばいいわけで、ぐだぐだと御託を並べる時間なんてもったいないとしか思えなくなってしまった。

あと、ある程度、自分がかつて理想とした形、価値観に近づいてしまったためかもしれない。

まだやりたいことであったり、気になることは多々あるが、現実と理想のギャップに苦しめられるといった状態がなくなった。

劣等感に苛まれることがなくなったのは、自己理解が深まったことが関係はしている。自問自答を繰り返したり、人との会話を深めたり、文理問わず様々な書を手にし、映画も結構な数を観た。内部と外部から自分知ろうとした。ある程度、どのような人間かを理解できたと言える。

そのため、答えのない苦しみであったり、人との比較により自分を全否定してしまう思考からは脱却できた。

もちろん、自分には足りていないことが多々ある。
そしてまたその溝を埋めることが非常に困難であろうこともある。

しかしその部位を埋めたいかといえば、そうではない。たいして望んでいないのだ。現状に満足してしまっているだとか、自己成長を望まなくなったとかではない。

結局のところ、自分が興味がないだけのことなのだ。少しも面白いと思えていないだけのこと。

生きたい方向性が決まったのならば、ただ先に進むだけ。
それ以上でもそれ以下でもなく。

迷うことはない。

思考するときに、人は存在する。

自由とは、思考する私となって群れから追い出されるというよりも、群れから逃走することなのである。

より

群れから外れ、死に脅かされるときにこそ思考する。

デカルトが述べた「私が存在するのは思考するあいだだけ」にはとても共感できる。

生きている実感をもてるのは思考している時だけだ。

自由とは自分が思考した通りに振舞うという意味である、という。
秩序に組み込まれたニンゲンはもはや思考することはない。
思考は退化し、息を潜めて群れの動向をうかがいながら、ときに権利を要求するだけとなる。

死の病いと生の哲学 (ちくま新書)

死の病いと生の哲学 (ちくま新書)

  • 作者:船木 亨
  • 発売日: 2020/07/07
  • メディア: 新書
より


組織に属し、ルールに従い其処にとどまり続けていると頭は不要になる。言われるがままに行動を取れば優秀とみなされ評されることとなれる。
そこに思考はない。皆無と言ってよい。

ときに権利を要求し、それをのんでもらえれば、他に思うところはなくなる。


私は群れから外れ、死に脅かされようとも存在し、生きていきたいと思う。思考のできる人となり死まで向かいたいと思う。