思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

今まで出会った人のことを思い出す時がある。

これまでに数えきれないほどの人々と出会い、そしてほとんど縁が切れた。

いまだに繋がっている人なんてほぼいないに等しい。

それぞれの環境だったり場所が異なっていけば、会うことも連絡を取ることもなくなる。

 

時々ふと思い出すことがある。

そういえばあの時あの場所で、あんなことを話したなとか。

昔はあいつとよく遊んだなとか。

 

全ては10年以上経過していることだったりする。

ぼくは人間関係を大切にしないやつである。そのくせして、懐かしむというか、思い返すことがある。

 

しかし、あの頃の自分と今の自分とでは感じ方も考え方もずいぶんと異なっている。

なので結局は、”あの時だったから楽しめた”ことがほとんどなのだ。

 

人の考え方や生き方を強く否定することもなく、また、それに流されることもない。

今のことしか考えられないので先を必要以上に案ずることもない。

それでいいと思っている。

 

 

 

隠居生活をはじめた。

30代半ばにしてほぼ隠居生活になった。

ここでいう隠居とは、人に会わないことを意味している。

 

つげ義春のような世捨て人的な生き方にあこがれていた。

しかしながら、本や漫画を書けるわけでも何かを生み出せるわけでもない。

いたって凡人であり、何も特別な素養を身に着けていない。そんな私は、ただ社会から遠ざかる選択をしただけのこと。

 

普通に自分の仕事をせねばならないし、手を抜くことも難しい。

家族三人で暮らすためのお金を確保せねばならないからだ。

それでも、様々な雑音が周囲から消え去り、ひとりの時間を過ごせるのならば構わない。

 

人と会う約束をしたり、決まった時間に仕事へ出向いたり、興味のない話に作り笑いを浮かべることがストレスだった。

顔面がマヒしそうなほどしんどくもあった。

 

とにかく楽になりたい、面倒ごとから抜け出したい。自分が頑張れることだけを頑張りたい。そう思っていた。

 

まだしばらく、悩むことは多々ある。

静かな時間のなかで考えていきたい。

 

 

 

他力本願では、どこにも行けない。

自分自身でなんとかするしかないのです。日本人は他力本願が多く、人に引っ張っていってもらおうという人が多いですが、人はきっかけしか与えられません。

 

旧統一教会に全裸突撃した“煉獄インフルエンサー”を直撃「宗教二世としての恨み」(bizSPA!フレッシュ) - Yahoo!ニュース

 

なんとなく読んだ記事でいい言葉を見つけた。

 

自分も以前から思っていたが、他力本願な人が多いなということ。

考えたり行動することをせず、周囲の誰かに引っ張ってもらおうとする人々。

 

すごい人と繋がりさえすれば、おいしい思いをできるんじゃないかとか、自分もその一部になれた気がしたり。

 

いくら著名人と接点を持てたところで、自分自身に能力やら何かしらの魅力がなければ意味はない。

 

誰かにすべてを世話してもらおうなんて考えは甘すぎる。

いいように搾取されるくらいなもんだろう。

 

頼れるのは自分自身のみであり、考えて前進していくしかない。

 

 

 

 

 

心の余裕について。

人を許すこと。必要以上に責めないこと。

少しだけ意識するようになった。

 

言いたいことは言うべき。

怒りたいときに怒るべき。

と考えもし、言わない後悔はなくしたいと思ってきたが、それには向き不向きがある。

 

言語化能力が低く、うまく伝えることができない自分は正しく怒れない。

いや、向いていない。

 

怒りを無理に閉じ込めることはせず、疑問を解消はするべきだろうが。

 

人を許せる余裕、ユーモラス。

改めてそちらの方向に舵を切ってみることにする、

 

 

 

すぐに忘れてしまうので、シンプルに生きていく。

日常生活のなかで記憶しておこうと思っていても、忘れてしまうことが多々ある。

考え方や、注意点、言動。

なにごとも習慣化してしまえば楽なのであるが、自分のくせに引っ張られてしまう。

 

ふとした瞬間に思い出すのだが、またすぐに忘れてしまう。

その繰り返しだ。

 

解決するのに一番簡単な手は、”何も”しゃべらないこと。

これに尽きる。

余計なことを言わずおこなわず、シンプルにすすむのが一番だ。

 

何も話さないことは、会社勤めしていたころ、徹底しようと努めていた。

寡黙にしておけば、余計なことに巻き込まれることもない。

言い訳ばかりいうやつだと思われたり、誰かを怒らせることも少ない。

 

あとは裏表を作らないというのも大切。

嫌いな相手とは適当に距離をとるだけでいい。

 

行動を単純化し、余計な面倒ごとを起こさないように生きていきたい。

 

 

他人を避けて、静かに暮らしている。

誰にも会わずに暮らすことほど精神を健康に保てることはないなと感じる。

 

人は群れを作りたがるし、仲間で集まって騒ぐことが好きなものであるようだが、自分はそうではない。

 

人と会う楽しみや喜びもあるにはあるが、それ以上にストレスを感じてしまう。

 

集まれば、1人くらいはあまり好きではないヤツがいるのは当然のことであり、また、合わせなければならないという縛りもでる。

 

一時は、シェアハウスだの、職場以外の仲間を作ることやらに興味が多々あった。

しかしそれはphaなどのインフルエンサーの言葉に踊らされていたに過ぎない。

本当のところは、仲間を作ることに興味なんてなかったのだ。

 

昔から隠居生活に憧れていた。

ただひたすらに孤独に、自己と向き合い、余計なことに時間や精神を削られることもなく過ごすことを望んでいた。

 

今は家族以外に時間は使っていない。

仕事をしているくらいのものである。

 

仕事も完全自己完結型となり、対面での人付き合いは皆無。

誰かに命令されることも、気を遣うこともない。

話を合わせる必要もない。

ただ、淡々と必要な金額までお金を稼ぐことをするだけでよい。

 

税のことやら自分でこなさなければならないことは増えたが、それ以上の自由は手にできたと思える。

 

このままこの暮らしでやっていけるように努めたい。

 

本当ならばSNSなども消してしまい、完全に他者から存在を潰してしまいたくもある。

しかし、必要な場面が多々あるため、それはまだ出来ない。

 

いい加減に生きてもどうせ死ぬことはない。

急に死が訪れることもあるが、なかなか死ぬものではない。

 

もう充分に世間に付き合い、気を遣い、人に合わせて生きてきた。これ以上は無理である。

 

縦社会に放り込まれ、面倒な年配者たちのご機嫌を崩すことをしない。

空気読み、素直に従い生きてきた。

 

もう充分に頑張った。

これ以上、私に何かを望まれても無理だ。

 

あとは好きにさせてもらう。

 

 

 

 

 

 

自分で商売するということ

自分でゼロから稼いでいくことは大変だなと改めて思う。

 

休みと仕事の境界線がなくなり、いつでも仕事となった。

あまり仕事と思っておらず趣味ととらえているが、必要最低限の費用を必ず稼がなければならないため責任はある。

誰かに命令されるわけでも叱られるわけでもないが、稼がないと死ぬから。

 

早く安定的に稼げるようになりたい。まだ足りないし、危ない。

勢いではないが、あまりリスクや不安を感じずに辞めたのだが、いよいよヤバくなった時に急に焦ることになるのだろう。(支払いが足りないとかで)

 

節約とか日頃のお金の計算がめっちゃ雑なので、もう少し細かく管理したほうがいいのだろう。

 

誰かのせいにしたり、自分の努力不足を簡単に棚に上げることは可能だ。

かといって、全てを自己責任にしてしまうと精神的に病んでしまう。

そのバランスが難しい。

 

早く全体的に配分を整えていきたい。