真剣に文章を書くとなると、かなり体力と時間を要する。
人様に見ていただくのに相応しいであろう内容を目指すとなると、それなりのレベルが求められる。
そしてそれを産み出すには、きちんとした下調べや構成が大切だ。
だが、そうなってくると満足のいく一つの記事を書き上げるのに30分から1時間は必要となる。
そこまで時間を割いてまで書くべきか悩んでくる。
必ず読んでもらえる保証も無く、その一記事当たりに幾らと単価が定められている訳でもないので、そんな趣味レベルの事にそこまで努力しなくてもと思えてくるのだ。
ただ、そのレベルの記事を書かない限り、人も集まらないし、金にもならない。
いつ訪れるか分からないその時期を待ちながら、何年間も記事を積み重ねる修行の時が必要となる。
そんな事をやっている程に暇で無く、他にすることも無限にあるのだからと思うと、書いている時間が惜しくなり、いてもたってもいられなくなる。
文章を書くという行為は異様に時間の流れを意識させられる。書くことは正に命を削る作業でるからだろう。自分を削って作家たちは作品を生み出す。自分の中にあるものを削って。
まあ、自分の場合は作家でも無く、楽しみでこうやってブログに文字を羅列しているに過ぎないのだが、個人的心情としては同じ様なものとしときたい。
そもそも、書く暇があるのなら、一冊でも多く本が読みたい。するべき事を脇に置き、本を読む事が多いため、そこまでして時間を確保したい読書をせずに、書くなんて浅はかな行為をする事は本当に馬鹿だと感じてしまうのだ。
所詮、書く行為は、自分の中の枠内でしか動けない。自分以上の知識をそこに出す事は出来ない。ならば、それよりも知らない世界へと誘ってくれる書に触れていたいのだ。
書く事で頭が整理され、自分を知れるというのには同意はする。ただ、それもある程度の所までいくとそんなに目新しさは感じ無くなってくる。何かそれなりに上手い文章が書けても、「まあ、これくらいは書けるでしょう。」とか、自分自身に生意気な感情が生まれてくる。なので、新たな発見とまではいかないのだ。
何の本で読んだか忘れたが、書く事と読む事の比重としては、書く:読む=9:1としていると、とある作家が述べていた。プロともなれば、それ位が当たり前なのだろうが、どうもそんな事は真似できない。書く暇あるんなら読みたいなーと思ってしまう。
最近、読書に纏わる本を久々に手に取ったのだが、茂木先生の頭は「本の読み方」で磨かれる: 見えてくるものが変わる70冊 (単行本)
これがすこぶる良い。久々に何度も読み返したいなと思えてくる本であった。自分はかなり読書論の本は読み込んでいるのだが、その中でもかなりぐっとくる作品であった。他に勧めるならこれらの本も良い。
読書好きには勧めておきたい。