自分の人生は自分で選択していかないと、濁っていく。
— アビさん (@abiabitarou) 2017年4月26日
周囲に合わせなきゃとか、親の言う通りにしなければとか、世間の常識に背いているだとか、そんなことを考えつづけると、息苦しくなることがある。
【目次】
誰のための人生か
かつての自分はいつも窒息していた。
周りとズレることが怖かったので、意見を揃えることを意識し続けていた。
自分の人生なのに、誰かの人生を生きているような感覚に陥っていた。
全て、誰かのせい
誰かの言う通りの一生を過ごすことは、苦痛ではあるが、ある意味ではとても楽だ。
責任の所在を、他人に押し付けてしまうことが可能であるからだ。
上手くいかなかったり、失敗してしまった際に、「〇〇の責任だ!」と簡単に転換してしまえるから。
だけれども、そんなことを繰り返していると、自分で考えたり行動を起こす気力が湧かなくなる。湧かなくなるというか、そもそも何をどうやって考えて生きたらいいのかすら、判別が付かなくなる。
自分を見失っていく
自分は何が好きで、どんなことをしている時が幸福であるかとか、どういう状況を苦痛と感じるかだとか、そんな単純なことすら不明瞭になる。
冒頭の自分のツイートのように、濁っていく感覚にある。
自己を喪失していると、簡単な誰かの言いなりになってしまったり、いいように操作されてしまう可能性が高い。
他人の評価に影響を受けやすい
人の言う、良し悪しに左右されやすい。
簡単なところで言えば
「あの人が彼のことを悪く言っていたら、彼は悪人に違いない。極力、交流はやめておこう」といった具合だ。
人の評価なんて、個人のバイアスが幾らでも掛かっているテーマなので、全くもってあてにならない。
だが、左右されてしまいやすい人は、そんなことも考えられなくなる。
人を除け者にするイジメだとか、集団での嫌がらせなどは、その場において影響力を持っている人物が、周囲をそそのかした結果から生じるものが多い。
いじめる側の全員が全員「あいつは、嫌な奴だな」と実感した上での、イジメ行為であることは少ない。
自分を持つ
自分の意見や意識を持つということは、難しいようであるが、要は「自分の直感に従う」という単純なことである。
なんとなく嫌だな思うことは避けるようにしたり、無理に誰かと行動するのでなく、1人がいいならば1人で動けば良いし、そういった、「自分の心地よい状態を常に確認しながら生きていく感じのこと」である。
それが、自分を持つことに繋がってくる。
なので、難しく考えたりするのでなく、「嫌なことは嫌といい、良いことは良い」と言えばいい。
それがなかなか、難しかったりするのだけれども、そういうことが大切だなと思うんですよね。