どんなことでも成長に繋がる。
最近、成長について考えることが多い。
どの様な時に人は成長できるのか、ということについて。
毎日、様々な葛藤を抱えて生きて、白か黒かで即決では判別のつかないことに対して悩み抜くことで人は育っていくのだろうか。
確かにそれは事実だし、そうやって日々決断を下しながら生きていくことで進歩しているのは確かだとは思う。
だけど、それだけではないと感じる。
もっと単純と言うか、何でもない様な普通なことでも成長を感じ取ることは可能なのではないだろうか。
それは例えば、漫画を読むとかでもありうる。
漫画の世界を通して、自分の中には無かった考え方がインストールされたり、知らなかった知識が増えていったりとかで。
映画とかも同様だと感じる。
まあ、要は自分が知らなかったことを知ることが出来るものであれば、何だって成長を与えてくれる。
新しいものを見て何かを思ったり、感じたりして、自分の中に起きた変化を見つめることが出来れば、人はいつだって先に進んでいける。
焦っても仕方がない
何かしらの努力をしなければ人生がどんどん過ぎていってしまう。
みたいな焦燥感に常に追われながら生きていたのだけれども、最近はあまり気にならなくなってきた。
結構時間を無駄に過ごしているし、何も生産的なことを成さない日は多くある。
以前は少しでも時間があれば本を読んだり、何かしらの知識を習得しようみたいな意気込みがあったし、所用を済ませたり、小忙しく動き回っていた。
最近は「今日はだるいから家にいよう」とか「漫画でも読んで寝転んでいるか」みたいな適当さが身に付いてきた。
限りある時間のなかで誰よりも少しでも成長しなければ、みたいな謎な気持ちが薄れている。
本当にどうしてもしたいこととかが今はあまり出てこない。
日記でも付けようかなみたいな気持ち位しか持てない。
無限コミュニケーション人間にはなれない。
無限にコミュニケーションを図れる人間のことを尊敬する。
自分とは全く違う惑星の生命体だなと思ってしまう。
2時間が限界
どんなに仲の良い関係でも、ずっと一緒にいて話し続けることは、自分にとっては結構な負担になってくる。そうじゃない時もあるけれど。
だいたいは、2時間くらいが限度なんじゃないだろうか。
リラックス出来ない
それがましてや歳上の先輩ばかりに囲まれた空間とかはもう息が詰まりそうな思いになる。
今の職場は、大勢の同僚の目に晒されながら休憩をしなければならないのだが、それが辛い。いつまで経っても慣れない。
だいたいは本を読むか、ネットでTwitterとかを眺めることで精神を保とうとしているのだけれども、自宅ほどリラックス出来る訳でもないので、いまいち集中は出来ない。
なんとなく会話したい人を見つければ、その人と話してみて、また別の人と話してみてって感じで、休憩時間をさっさと流してしまうようにはしている。
職場の人間とは会社以外では基本は会いたくない
そんな感じなので会社以外で、職場の人たちと交流することなんてのは、全くもって考えられない。よほど仲良い人ならば友達的な感覚でいけるかもしれないが、基本はキツイ。
皆で集まってどっかに行くとかのそんなイベント、時給が発生しない限りは無理かなと思ってしまう。まあ、お金が貰えたとしても行かないけど。
時間が大事
自分にとってはお金よりも圧倒的に時間が大切なので、多少のお金を捨ててでも時間を確保することを最優先する。
何かしらの知識や技能を身につけようと思えば1人で過ごす時間が絶対的に必要になるし、お金さえ掛ければ身につくスキルなんてものは聞いたことがない。
周囲にどう思われてもいいし、ちょっと悪く思われたとしても、そんなことよりも自分の心を潰していくほうが自分にとっては辛い。
変な奴だと思われようが、どうせみんな、いつか死ぬんだからどうでもいいじゃないか。
コミュニケーションはプログラム。
言葉無くしても、それなりの意思疎通を図ることは出来る。
これを信じきるのはどうかと思う。
これくらいのことは説明を省略しても伝わるだろうとか、人間はコンピュータと異なり正確なインプットは不要で、理解に至ってない部分については自分で予測を立てて補ってくれるだろうとかの見方を自分は正しいとこれまで信じてきていた。
しかしながら、それは間違いであったのではと思うようになった。
いわゆる「行間を読む」
相手が言わんとすることを読み取って、その部分を補足していく。この力が重要であるかのように思われているが、人間にも機械と同レベルでの正確な情報提供をすべきなのではと考えるようになった。
自分のコミュニケーション不足、言葉不足を棚に上げて相手を批判してしまうのは間違っている。
自分の伝え方、教え方に問題がないかについて再度、思案してみるべきである。
人を使ったり頼ったりする際には100%を相手に求めてはいけない。
もし、自分にとっての完璧を実現したいのならば、何もかも自己処理で片付けてしまい、アウトソーシングするべきではない。
6割から7割ほど伝われば良しとし、自分でしてしまう方が早いと思えることに関しては済ませてしまうのもいい。
また、相談を相手に持ち掛ける際にも、なるべくは自分の考えや案を提供した後に、意見を求めるのがいいのではないだろうか。
コミュニケーションはいつまでも不完全で、思いのままにはいけない。
完全なるコミュニケーションを求めるのならば、プログラムを組むように1つも余すところ無く、正確に言語を使う必要性がある。
おわり。
飽きっぽいことは良いことだと言いたい。
飽きっぽいってのはマイナスイメージが強いけれども、果たしてそう言い切れるのだろうか。
自分はかなり飽き性なのだが、以前よりは肯定的に受け止められるようになってきた。
何事にも根気が続かずにやる気が無い、みたいな印象を持つ人々はまだまだ多くはある。
だが、飽き性を保つのも難しくはある。
エネルギーと決断力を要する
新しいことへ常に挑戦するとなると、結構なエネルギーが必要であるし、決断力も求められる。
何を辞めて何を始めるか。この過程を考えるのが苦手なために、惰性で継続しているだけの人も多いのではないだろうか。
一つのことを続けるのは偉いみたいな思想は根強い人気を集めているが、あまりそう思えない。
次から次へと面白いことを集めてくる能力のほうを僕は評価したい。
凡人とは異なる鋭い視点が大切
洞察力というか着想力というか、普通に漠然と過ごしていては気付けないことを見つけてくる力も求められる。
1つのことを深く追求してみて初めて見える世界もあるのは確かだろうが、人生は長くない。
1つだけを追い求めていくよりも、そこそこレベルのモノをいくつも持っておく方が何かと役立つ。
多方面への興味は雑談でも有効だ。
どのようなジャンルの話題でも、ある程度はついていけるために見ず知らずの相手とでも仲良くなれやすい。
そして、どの様に多種多様な興味を維持するのかと言えば、洞察力とか着想力が肝心だ。
その能力に長けている人は、とにかく魅力的である場合が多い。
少し会話を交えてみただけで、頭の良さがよく分かるし、感心させられる。
知りたいの欲求を成長させ続ける
同じような毎日を過ごし、自分の分かる範囲の出来事だけに目を向けている様な人生は、死んでいるのと変わらないんじゃないかと思っている。結構、死んでいる人は多くいる。そっち系の人々は、世間のルールとか常識とか、思い込みに人生を随分と左右されている傾向にある。
周囲からの評価や視線ばかりを気にかけて過ごしていて可哀想だなと思ってしまう。
いつ死ぬか分からないし、どうせたいした人生じゃないのだから、好きなことをして、自分が興味を持てそうなことをどんどん学習していけばいい。そうやって人生を充実させていけばいい。
それが知りたいの欲求を成長させていくことになるし、自分独自の視点を持った生き方が出来るようになる。
距離感を掴める人になることが大切。
距離感が分かるかどうか、ってのは本当に大切なことだと思っている。
「行間を読む」とか、「相手の心理を読み取る」ことは以前ほどには重要だと考えてはいないが、人付き合いを上手く回していくには、相手との距離を正確に測れる力は活きてくるんじゃないかなと感じている。
まずは、人は一人ひとり全く異なる生命体であるのだから、例え自分と似た性質を持ち合わせている相手と言えども、距離を詰めすぎることはよくない。
自分と違う部分が見えてきた時に、失望というか、「たいしたことないな」みたいな舐めた気持ちになる。
舐めた気持ちというと、随分と偉そうな表現になるのだが、そこからどこかよそよそしい感じになっていくことはある。
まあ、強いていうならば、「他人に期待しすぎるな」ということだろうか。
これは、恋愛においても交友関係においても、家族においても、とにかく対人間であれば言えることだ。
人間は分からないことは、想像で埋めてしまう生物なので、どうしてもそこに期待が出てくる。願望というか。
本当は信頼できるのは自分自身のみでしかないし、人は簡単に裏切るし、そもそも勝手に相手に期待していただけのことに過ぎない。
30年ほど生きてきて、その様なことが分かった。
他者との距離感をうまく掴めるようになるだけで、コミュニティケーションは上手くなる。
あとはとにかく、分からない時や沈黙が怖いと感じた時ほど、余計なことは一切口にしないということ。
これが肝心だ。
無口だと思われる方が何かと便利だし、ウザがられる可能性も低くなる。
声が大きい人や、喋りっぱなしの人がどうしても目立つが、目立つ分リスクも増える。
じっくりと周囲を観察する力を持っておくのが賢い生き方だなと思っている。
おわり。
ブログを1,000記事書いて学んだ5つのこと。
気が付けば、このブログが1,000記事を達成していた。
よくここまで続けられた!
という感想を抱いたと同時に、案外簡単に到達できるものなのだなという気持ちにもなった。
1,000記事を実際に書いてみて得られた知見について述べていきたい。
書き言葉が出やすくなる
ブログを始めたばかりの頃は、何か書きたいことが出てきても、それを文章化するのがとても苦手だった。
どう表現したらよいか分からないとか、どういう言い回しだったら伝わりやすいのだろうか、といったことを考えるのが苦痛だった。
日頃、発している話し言葉と、書き言葉では性質がまるで異なる。
どうやれば書き言葉が上手く扱えるようになれるのかというと、ひたすら文章を書くことに尽きる。
1,000記事も書けばそれなりに言葉が出てくるようになると思う。
自分のことがよく分かるようになる
自分はいったい何が好きなのだろうか。
どんなことを日頃考えているのだろうか。
どんな時に強いストレスを感じるのだろう?
こういったことがブログを書いていると分かるようになってくる。
ブログを書き続けていると、どうしても自分を掘り下げる作業になってくる。
就活生の頃に自己分析をした経験があると思うが、それをずっと行っている感じに近い。
上手くいっても、上手くいかなくても気にならなくなる
ブログでヒット記事を作ることは難しい。
なかなか狙ってやれるものではないし、そもそも自分が書きたいことと随分乖離したものが出来上がることが大半だ。
全然アクセス数が増えないとか、お金にならないとかばかりを気にしていたら、とてもじゃないが1,000記事とか書けない。
上手く書けた時も、上手く書けなかった時も、気にすることなく淡々と更新していくのがいい。
人間はたいしたことを考えていない
だいたいいつも、頭の中でぼーっと考えていることをブログで綴っているのだけれども、本当にたいしたことを考えていないんだなってのがよく分かる。
同じ様なことかグルグル頭の中を巡っているだけだし、眠たいとか疲れたとかお腹空いたとかの原始的な欲求ばかりだ。
世界は変わらない
ブログのお陰で、人生変わりました!とか、不労所得を沢山得られるようになって仕事をやめました!みたいな人たちもひと握りいるようだが、基本的には人生は変わらない。
ネットで文章を書いているという事実だけが残るだけのこと。
1人で日記を綴っていくよりも、不特定多数にその日記を公開するほうが面白い。
その面白みを味わうためだけに、ブログを書いている。
2,000記事目到達とか、めちゃくちゃ先の話なんだろうけれどもそこまで続けられたら嬉しいな。
ここまで頑張ってブログを書いてきたので、何かください