思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

ブログは日記を書くだけでは稼げません。収入には繋がらない。

僕はかれこれ2年以上はブログを何となく更新し続けている。

書く内容は具体性に乏しく、ほぼ日記状態。そんなブログで900回以上は更新してきた。

それだけ書けば少しは文章力が上がるのかといえば、よく分からない。
以前よりは、すぐに言葉が出てくるようになった気はするが、それが文章力と呼べるのかは微妙なところだ。




ブログをどうせするならば、お金にしたい。収益化させ、少しでも生活の足しにしたいと思っている人は多いだろう。



さて、そこで発生するジレンマがある。
お金を欲しいけれども、アフィリエイトに特化した方向に走るべきか否かということ。
自分はエッセイのような記事を書いていきたいなと思った場合、稼げるのか?

稼げません

結論としては、お金にならない。
何か特別な経験を持っているなり、日常を過ごしているのであれば、日記スタイルでも目を惹くものがあり収益化しやすいかもしれない。
だが、ごくごく普通の日々を過ごしているのであれば難しいところである。

お金が欲しければ、法則に乗っかるしかない

法則とは、アフィリエイトブロガーたちが実践しているブログの運営方法を真似ることである。


下記リンクの書籍が参考になる。

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プロ・ブロガーの 必ず結果が出るアクセスアップ テクニック100 ファンにも検索エンジンにも好かれるブログ運営の極意

副業ブログで月に35万稼げるアフィリエイト

どれも実際に読んでみた。

これらの本のなかに書いてあることを忠実に実践していけばお金になっていく。

ただ、自分の書きたいことと一致するかは別ではあるが。
しかし、そんなワガママを言っているとお金にならないので割り切ることが肝心だ。


とにかく、日記を書いていくだけでは儲からないということだけを覚えておいて欲しい。

【食事事情】大人になると味覚が変わった。

年齢の変化に伴って、自分の味覚が変わっていっている。

好きだった物に興味が無くなり、ほとほとに食べる気力が湧いてこない。

食べられない程に苦手となったわけでは無いが、すすんで食べようという気にはならない。

【目次】

カレーが好きでなくなった

老若男女、誰もが愛しているはずのメニュー、カレーライス。
これがあまり好きでなくなってしまった。
かつては、秋葉原にあるマンモスカレーという名の大盛り1kgカレーを黙々と食べる位であったのに。

香辛料がなんだか自分の身体に合わなくなったのと、辛味の刺激が喉と胃に良くなく、またなんとなく頭痛がするようになった。身体が弱ってきたのだろうか。

昔はカレーならば毎日でも食べたいなと、常々思っていたのだが、今は欲しいとつゆも思わずというあんばいだ。

ラーメンも好きでなくなった

かねてより、ラーメンに関しては好きという感情を抱いたことは無かったのだが、誘われれば食べたし、美味しいと一応は感じたりしていた。だが、今は出来ることならば食べたくないなーと思っている。
脂っこいし、麺の感じもあまり好きでない。
学生時代は異様にラーメン好きが周囲にいたので、2日にいっぺん位の頻度で、何処かしらのラーメン屋に連れられていた。
その影響ですごく肥ったりした。

卵、豆腐、納豆、味噌、野菜

今はなにが好きなのかと言えば、卵、豆腐、納豆、味噌、野菜だ。
だいたいは食事にこれらが登場してくる。
豆腐、味噌、野菜はみそ汁を作れば完全に摂取できる。

豆腐だけなら、炊きたてのご飯の上に乗せて、しょう油や麺つゆを掛けて食べるのが美味しい。
ついでに天かすが有れば、サクサク感が出て最高になる。

要は今は家ご飯が好きになったということである。家ご飯との言葉は、なんだか語呂が悪いが、飯(メシ)との言葉が嫌いだからである。
例えば、美味しいと言わずに、美味い(うまい)という女性とはまずお付き合いは考えられない。ああ、これはダメだなと興味がすぐ様に消え失せる。見てくれも大切だが、言葉を1つ1つ丁寧に使うような人に惹かれる。

オヤツはバナナ

基本的にオヤツはバナナを好んでいる。
バナナは一房100円ほどで購入して出来てしまうし腹持ち良く、栄養価も高い。
出掛ける際には、一本は持ち歩くようにしている。
ただ、ケースなどに入れず、そのままか袋に入れているだけなので、カバンの中が少しバナナ臭くなる。嫌な臭いじゃないから構わないが。

昔から変わらないのは、生クリームだけ

昔から味覚が変わらずに、好んでいるものは生クリームである。
クレープなど、生クリームだけ入っていれば満足だ。
アイスクリームは苦手である。そもそも冷たい物が好きでない。アイスクリームが溶けてきた時に異様な甘さになる。すぐさま虫歯になりそうなほどに。冷たさで誤魔化していた甘味が本来の姿を現してくる。あれはとても食べられた物じゃない。身体に悪い。
生クリームは好きなくせに、そんなことを思ってしまう。

加齢の恐怖から逃れる思考について。


僕はかつて、歳を取ることが恐怖だった。


どんどん老いていって枯れていく。あらゆる身体能力は衰えていき、残るものは何もない。人生の選択の幅も狭まれていく。若い頃に夢は実現しなければ、大人になってからどの様な転機が訪れようか。訪れるはずがない。

と言う具合に、とにかくネガティヴ思考を抱えていた。
いま自分は30歳を迎える直前なのだが、以前ならば「もう人生は終わった」位に考えていただろう。

だが、そんな心配も不要になった。不要になっというよりも、そんな取るに足らぬツマラヌことでクヨクヨする暇が無くなったのだ。


【目次】

新しい興味を作っていく

年齢のことなんて気にならなくどころか、むしろ、「人生が幾ら永くても全然足りない!!」と常に今だけを見て生きる考え方がある。

それが、「どんどん新しい興味を作っていく」という生き方だ。

何かの分野において精通しようと思えば、どんどん掘り下げていくことが可能である。たった1つの分野でも内部を細分化していけば、ジャンルとしては無限の拡がりを見せてくる。それを日々追求しながら、自己学習を繰り返しているとあっという間に時間が過ぎていく。
役立つとか役立たないとか、
それがお金になるとかならないだ、とかの算段は一切この場合は必要ない。
何が重要であるかといえば「楽しいか、楽しくないか?」だけである。

人生の楽しみを増やしていく

興味のあるモノを増やしていけばいくほどに、人生は楽しくなるし、彩り鮮やかとなる。まさに人生バラ色といった具合に。
面白みさを加速させる手立てとしては、「なるべく周囲の人間が絶対に興味を持たないであろう分野に詳しくなっていく」ことが挙げられる。


例えば、イングランドのショーン・エリスという男がロッキー山脈に単身で乗り込み、約9ヶ月の歳月をかけて野生の狼の群れに仲間に入れてもらった話など、知ったところで何になろう。
これは『狼の群れと暮らした男』というノンフィクション作品の話だ。
どの様なプロセスを経て仲間に入れてもらったのか、そもそもなぜ野生の狼と暮らそうと思ったのか、なぜ2年間も狼からもらった食べ物のみで生き延びることが出来たのか、などの無駄知識を仕入れることが出来る。
これを読めば更に狼の生態について詳しく学習しきたくなり、動物園にてひたすらに狼の観察を続けたり、専門書を漁り始めるかもしれない。

その様なことが人生を楽しくしていくと考えている。

ここにもやはり、役立つかどうかでなく、楽しいかどうかだけの考え方が必要となる。
そもそもこの本に登場する、狼と暮らしたショーン・エリス自身も楽しいどうかしか考えていない。一般的な考えでいけば、「噛み殺されて食べられてしまう」と考えるはずだ。

年齢のことなんて、忘れてしまっていい

幾つになったからコレくらいのことは常識とし身につけておくべきだ。
コレくらいは持っておくべきだ。
こういった世間の常識に縛られた生き方は捨ててしまったほうがいい。

「家を買ったほうがいい」
「車を買ったほうがいい」

こんなものを信じなくていい。

楽しくなるなら買えばいいけれども、自分に不幸を招く結果となりそうならば必要ない。

年齢を気にしなくなると、誰とでも仲良くなれる

自分はあまりに相手の年齢を気にせず、気が合えばどんどん仲良くなるように心がけている。心がけていると言うよりも、「面白い人物だな」と感じた相手とは積極的にコミュニケーションを図っているだけである。
そんな時に、「年齢のことなんて気にする必要は一切無いのだな」としみじみと思うのである。

年齢制限を作らない

自分で年齢制限を設けるのはもったいない。
興味があれば今すぐ始めればいいし、気に入らなくなったらやめてしまえばいい。

そんなことを気にしている程に、人生は暇ではない。思いっきり楽しむために人生はある。
思い込みの壁を全部取っ払い、楽しいことだけを追求していこう。

人生が辛い、つまらない時の対処法。

人生がどうしようもない位に辛くなったり、行き詰ったりすることがある。

仕事でめちゃめちゃ失敗したり、人間関係が崩壊したり、誰かに死ぬほど嫌われたりとか、とにかく色々。


もうダメだ、人生終了だ。
全てから逃げたい。
それくらいに絶望したりした時、いつも思うことがある。

それでも生きていくしかない

どんなに最悪な事態になろうが、どれだけボロボロになろうが、選択肢は1つしかない。

「それでも生きていくしかないんだよな」

この一言がいつも頭の中に浮かんでくる。

頭の中だけでなく、実際に口にしてみたりもする。
少し演技っぽい口調で言ってみたりすることで、何かの主人公になったような気持ちになる。

生きていればなんとかなる

とにかく生を繋いでいけば、なんとかなる。なんともならない様に一度は思えたりしても、生きていたら明日は来るし、明後日も来る。
ただひたすらに苦難を耐えるしかない。
もちろん逃げてもいい。どんな手段を使ってでも、生き延びることが大切だ。


どんなにダメでも、それでも生きるしかないんだよなと、一種の諦めの様であり何かを悟ったかのような表現が心を少し救ってくれる。

「これをして何になる?」は、野暮な問いだと思う。

何かを始める時に、損得感情だけで判断してしまうのは実にもったいない。

「これをやれば、すぐにお金に繋がるか?」とか「幾ら損をしたとか」とか、そんなことばかりを考えていては動けなくなる。


【目次】

お金を稼ぐことを第一のモチベーションにすると、辛くなる


早く稼がねば、と焦れば焦るほどに人生は辛くなるし楽しいことが減っていく。
一定の額を安定的に稼げるようになれば、楽しくなるのかもしれないが、それでもお金だけを目標にするとキツくなると思う。


学びを愉しむ、ゆとりを持つ

「知らなかったことを知る」
「出来なかったことが、出来るようになる」
こういったことを純粋に喜べる感覚を持っておくことが大切だ。

子どもの頃は、喜びが全ての原動力だったはずだ。
それは大人でも同じはずである。
しかし、「お金を稼ぐことが大切」というイメージが刷り込まれてしまっているがために、すぐに損得判断を行なってしまうようになる。
だか、それでは物事を短期的にしか見られなくなる。

1番理想的な流れとしては、「寝食を忘れるほどに没頭していて気が付いたら、それが少なからず収入になってきた」という感じだろうか。

お金では幸福の尺度は測れない

お金をたくさん持っていれば、常に幸福だとは限らない。
何かを持っていれば、それで人生が良くなるなんてことはない。
それよりも自分の中に知識とか経験とかを沢山持っておくことのほうが、人生は豊かになる。
自分は少なくとも、そう考えて生きている。
何を幸せと感じながら生きるかは人それぞれではあるが、銭勘定ばかりしないほうが生きやすいし楽しい。

情報はお金を払うもの。タダに慣れてはいけない。

情報は無料が当たり前だという誤った認識がある。

インターネットを日頃利用していると、どんな系統のデータだろうと基本的に、タダで仕入れることが出来る。
時間を掛けて検索していけば、ある程度自分の知りたいことは集まってくる。
これは良いことだが、そのせいで情報は無料であることが当然だという考えが一般的になってしまう。

書籍は有料である

読みたければ書店にて買い求めるしかない。
しかし、図書館を利用すればお金を支払わずに読めてしまえる。
これは大変ありがたいことだ。
この恩恵は大いに活用すべきであり、どんどん借りて読んでいけばいいと思う。

しかし、図書館にすべての本が置いてあるわけもなく、買わなければならない場合が出てくる。
また、あったにはしても予約が何十件も入っていて、読める順番が回ってくるのが一年以上先ということがある。

この時に、自分の手元に本が届くまで、ただ待ち続けるのは時間の無駄だど感じる。


本来、本を読む行為には、情報の提供に対価を支払うことが必要である。
なのに、無料で読めてしまう環境に慣れきってしまい、「払うわけないだろう」と憤慨する。

払わないことを当然と考えない

本は買って読めについては、賛同できない。お金を遣うことなく読める状況が整っているのであれば活用すべきだと思っている。身銭を切らなければ、本を読んでも身に付かないの話は理解しがたい。
だが「払わないことが当然だ」とまで思うようになってはダメだ。
待つ時間の節約のためにも、読みたいモノであれば、お金を遣う。

自分の人生を取り戻す方法について。



周囲に合わせなきゃとか、親の言う通りにしなければとか、世間の常識に背いているだとか、そんなことを考えつづけると、息苦しくなることがある。

【目次】

誰のための人生か

かつての自分はいつも窒息していた。

周りとズレることが怖かったので、意見を揃えることを意識し続けていた。


自分の人生なのに、誰かの人生を生きているような感覚に陥っていた。

全て、誰かのせい


誰かの言う通りの一生を過ごすことは、苦痛ではあるが、ある意味ではとても楽だ。

責任の所在を、他人に押し付けてしまうことが可能であるからだ。

上手くいかなかったり、失敗してしまった際に、「〇〇の責任だ!」と簡単に転換してしまえるから。

だけれども、そんなことを繰り返していると、自分で考えたり行動を起こす気力が湧かなくなる。湧かなくなるというか、そもそも何をどうやって考えて生きたらいいのかすら、判別が付かなくなる。

自分を見失っていく

自分は何が好きで、どんなことをしている時が幸福であるかとか、どういう状況を苦痛と感じるかだとか、そんな単純なことすら不明瞭になる。

冒頭の自分のツイートのように、濁っていく感覚にある。

自己を喪失していると、簡単な誰かの言いなりになってしまったり、いいように操作されてしまう可能性が高い。

他人の評価に影響を受けやすい

人の言う、良し悪しに左右されやすい。

簡単なところで言えば
「あの人が彼のことを悪く言っていたら、彼は悪人に違いない。極力、交流はやめておこう」といった具合だ。


人の評価なんて、個人のバイアスが幾らでも掛かっているテーマなので、全くもってあてにならない。
だが、左右されてしまいやすい人は、そんなことも考えられなくなる。


人を除け者にするイジメだとか、集団での嫌がらせなどは、その場において影響力を持っている人物が、周囲をそそのかした結果から生じるものが多い。
いじめる側の全員が全員「あいつは、嫌な奴だな」と実感した上での、イジメ行為であることは少ない。

自分を持つ

自分の意見や意識を持つということは、難しいようであるが、要は「自分の直感に従う」という単純なことである。

なんとなく嫌だな思うことは避けるようにしたり、無理に誰かと行動するのでなく、1人がいいならば1人で動けば良いし、そういった、「自分の心地よい状態を常に確認しながら生きていく感じのこと」である。

それが、自分を持つことに繋がってくる。


なので、難しく考えたりするのでなく、「嫌なことは嫌といい、良いことは良い」と言えばいい。

それがなかなか、難しかったりするのだけれども、そういうことが大切だなと思うんですよね。