思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

漫画を読んだり、1人で映画を楽しめるようになった。


最近、漫画をたまに読むようになったし、映画も1人で観れるようになった。

こうやって大人になっていくんだなという実感がある。
今年で30歳なのに、今更、大人になったんだなとか何を言っているのかなという感じはあるが。

35歳が人生の折り返し地点みたいな感覚があるって話をこの間、なにかの本で読んだ。
もう折り返し点まで5歳しかないのかと思うと、もっと加速度的にあらゆる物を吸収しておかねば行き倒れてしまうんじゃないかみたいな謎の不安感はある。
だけれども、もう劇的な変化を迎えることもなく、このまま惰性的に人生を全うしていくんだろうなとも思う。


漫画と映画。
ぼくはなぜ、あまり漫画を読まなかったかといえば、すごく絵が邪魔だなと気持ちがあったから。
文字のみで構成されている書物と異なり、いちいち絵が入ってくる漫画はテンポが掴みにくい。崩されるというか。
普段、本を読むときは全ての文字をていねいに読み込んでいくようなことはしない。
重要そうなワードのみを拾っていく感じに近い。
だが、漫画だとそれが出来ない。
作者の意図した通りに解釈していかねばならないというか、自分の脳内で場面をイメージしてみたりすることや独自の理解を阻まれてしまう。


映画に関しては、単純に2時間近く画面の前にい続けることが無理だったということに尽きる。
途中で飽きてきても、だれか一緒に観ている人がいれば、気持ちを継続できる。
1人だと、もっとしたいことが別に出て来たりすると、観るのをやめてしまいがちになる。
だが、映画を観た後に、色々と自分のなかで思う所を文章にしてみたり、別の何かと関連付けてみるとかをやっていく様になってからは楽しめるようになった。
あとは、再生速度を1.5倍にして観るとかの技を覚えたことも大きい。
1.5倍くらいまでなら全然普通に観ることが出来る。時間短縮にもなって負荷が減る。

もともと引きこもり気質なので、漫画と映画を楽しめるようになったというのは凄く嬉しい。
自宅で過ごす際の娯楽が増えたことになる。

まあ、もっと外にも出て、色んな人間たちと交流する必要もあるのかもしれないが、自分の中に様々な文化を持たせておくとも重要だ。

大きく何かを成し遂げることは出来ないかもしれないが、自分の知らないことを減らしていきたいし、経験したことの無いことは一通り、やっていきたいとは思っている。

そうやって生きていこう。

嫌な人間はしぶとい。

自分にとって心地の良い相手たちとだけ付き合っていけたら本当にいいのになと思う。

世の中は面倒な人間が多すぎる。現実もSNSの世界みたいにミュートとかブロック機能が本当に欲しい。

人間関係に対するストレスを完全に克服出来たらいいのに、なかなかそうはいかない。
嫌いな人間が多すぎて、うまく生きていける気がしない。

嫌な奴ほど長生きするというかしぶとく生命している。
良い人ほどなんか消えていく。

気持ちをすぐに切り替えられる人間になろう。


世の中は思い通りにいかない。

自分は結構、後悔ばかりする人間だった。

思ったようにことが進まなかったり、準備不足があったがために損をしてしまったり、無駄な時間やお金を払ってしまった時には、結構精神が取り乱されていたりした。

また、その原因を少しでも他人のせいに出来そうな環境の場合は、その人物に対して恨みつらみをグチってしまう様なチンケな人間であった。


だが、そんなことをしても、なんの得にもならないし、誰かを責めてみたところで、険悪な雰囲気になるだけでしかない。
それよりも、次なる手を案じていくほうが、絶対的に建設的であり、精神衛生上も良いなと理解できるようになった。これは随分と大人になれたなという実感する。


失敗は失敗として素直に認めるしかないし、注意不足であったと反省するしかない。そして、次のベストな手は何であろうかと思考を巡らせるしかない。

過ぎたことは、もうしょうがないと諦めてしまい、それ以上に損失が大きくならないように努めていくのがよい。

そうは言っても、そう簡単には気持ちを割り切れるものではないので、心のどこかでウジウジとしてしまうこともあるだろう。
それでも、しょうがないにゃあと切り替えていこう。

人生は、死ぬまでの暇つぶしなんだから何をしても同じ。



基本的にこの思考に基づいて生きている。

なんだか最もらしいことを言ってみたり、大それたことをやり遂げている気持ちになっていたりして、自己陶酔に陥る傾向にある人も多いけれど、結局は暇つぶしなんじゃないかと思ってしまう。

よって、他人の行動を批判的になってみたり、自分と同じように方向性を整えようとするのってのはかなりのエゴでしかないし、無理に同調させようとするのは間違っている。

まあそうは言っても、自分だって知らないところで誰かに強制しようとしたりしているのかもしれないし、自分はそんな面倒な人間じゃないぞとは言い切れない。

だけれども、このブログに書いていることは自分に言い聞かせるためのものでもあるので、完全に出来ていることや理解していることだけを書くつもりはない。

ただ、気持ちに整理が付いていないことに対しては書くことをためらってしまう。
うまく言葉が出てこないから。
また、逆に自分の中で納得がいき、満足してしまったことに対しても書くことが出来ない。それはもう"終わったこと"になっているから。

もっと沢山のいい感じの暇つぶしを見つけて、それらを上手くローテーションさせながら、知識とか思考を深めて生きていくことが出来たらいいな。

過去の人々を時々思い出す。


過去に仲良くしていた人たちは、ほぼ連絡先がもはや不明になっている。

たまにふと何かの拍子に当時のことを思い出したりすることがある。


ただ、顔ははっきりと頭に出てこない。
時間が経過し過ぎたせいで、記憶が曖昧になっているようだ。

だけど、その時に見た景観だとか、妙に印象的だったワンシーンだとか、交わしたワンフレーズだとかは残っている。

こうやってこれからもまた、色んな人間たちと出会っては別れていくのだろうか。

しかし、学生時代の様に活動的じゃなくなっているので新規の知り合いがどんど増えていくことが余りない。
今は、固定化された人間関係のなかで過ごす様になったので、付き合いは続き、互いに歳を重ねていくことになるのだろう。

どちらかといえば、自分はそんな風に長期間知り合いでい続けることよりも、短期的に関わり合い、それ以降は記憶の中だけに生き続けるようなものが好きな気がする。

家族だとか配偶者だとかの、絶対的な位置にある人たちに対してそんな思いはないが、偶然知り合った相手に対してはそれで良いと考えている。

何処で何をしているのだろか、また会ってみたいな、という気持ちが以前はあった。
今では、そんな人間がいたな、という再認識で終わる。

季節の移ろいの如く、人間模様も常に変化を受けていく。
それを上手く自分なりに取り込んでいき、表現出来ていけるようになりたいな。

人間なんてどうでもいい。

ひと昔前に流行った『涼宮ハルヒの憂鬱』じゃないけれども、「ただの人間には興味はありません」って感じで生きている。

ただの人間にはというより、人間そのものに興味が持てない。

だから、小説も読めない。
小説を読んでいても、登場人物1人ひとりが目障りに思えてくるし、誰も出てこないで欲しいなと考えている。

特に女キャラばかり出てくる様な物語とか、すぐに読みやめてしまう。
ストーリーを練る力が不足しているのを、恋愛要素で誤魔化しているとしか思えない。

漫画も人間ばかり出てくるので、読めない。

そんな感じなので、多くの人間が長時間集まる空間とか耐え難い。
職場なんてのはその最たるものだ。

結局のところ、1番居心地の良い空間となるのは意識の集合体であるインターネット空間。そこに落ち着く。

肉体を失わせ、精神世界を視覚化させたものがネットだ。
ただ、肉体を介在させなければアクセス出来ないという不都合がある。

身体すらも機械に置き換え、意識の全てを電子空間に潜っていける未来が早く欲しい。

僕たちは電脳社会に生きている。

常時、我々はネット世界に接続し続けている人生になったなと常々感じている。

以前は自宅に戻り、デスクトップパソコンの電源ボタンを押すまではネットとは切断されていた。

それが今や、片時もスマートフォンから目を離さない人々で溢れかえり、皆、ネット世界へとダイブしている。

ちょっと前まではネットばかりする若者のことを批判していた様な、中高年層ほどスマホに熱を上げている姿を電車内ではよく見かける。ゲームをしたり動画を観たり、ニュースまとめサイトなどを閲覧し続けるオヤジたちの姿を数年前までは想像出来なかった。


近未来SF漫画『攻殼機動隊』で描かれていた、電脳社会に近いものが現実となったわけだ。人間が常にネットに接続し続ける社会に。それについては、『攻殼機動隊』の映像作品で監督をなされていた押井守氏も言及されていた。『ひとまず、信じない - 情報氾濫時代の生き方 (中公新書ラクレ)』のなかに出てきます。押井守氏は自分自身ではインターネットを利用することはほとんど無いそうであるが、攻殻機動隊の様なリアルで奥の深い近未来を描けてしまうところが面白い。



産まれた時からネットが当たり前にある環境で育った子たちがどんどん増えていく。
ネットを通じて見ず知らずの人間同士でのコミュニケーションが幼少期から存在する世界を生きる世代は、もう新人類呼べるほどに、自分たちとは感覚が違っているのだろう。