思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

電話ばかりでなく、上手くメールを使えるようになったほうがいい。




いまだに電話に頼りすぎている人はダメだと感じる。

電話を掛けることは相手の時間を強制的に奪い去る行為であり、相手が何をしていようとも無理矢理に中断させることになる。

恋人同士や家族、親しい友人同士でもない限りは、疎ましいことと思われてしまうに違いない。



文章を作ることを練習しておく

日頃から文章を書くことを習慣とし、また、自分の考えていることを手短かに的確に表現できるよう訓練しておくことは大切だ。

ビジネスシーンのみならず、プライベートでも文章力はかなり役立つ。

インターネットで自分の書いた文章を無料で発信出来るのだから、どんどん書いていくべきだ。

書くは立派な論文の様な物である必要はなく、日記レベルでいい。


メール連絡は誤解を生むという間違い

文章のみでは、コミュニケーションとして完全ではなく、誤解を生みやすいという意見がある。

確かに誤解を生むことはあるだろうが、それは面と向かって話を交えていようとも起きないとは言い切れない。


メールでの考え違いの発生原因は、語彙力や書き慣れが関係してくる。
適切な表現方法を知らなかったり、言い回しを心得ていないばかりに、そのような厄介ごとは生まれてくる。
それを回避するためには、本を読んで言葉を学んだり、日記などを書くことが必要とされると感じる。



おわり。

1つのグループに属し続けることの難しさ。




どんなに一時は仲が良くても、それをずっと維持していくのが不得意である。

個別での繋がりならある程度はうまく処理出来ていくのだけれども、グループ単位となると別物になる。

人数により人格が抱える人

そもそも人間は、個人で動く時とグループで動く時では別人格になる場合が多い。

群れることにより強気になったり、普段は言えないような事も、平然と口に出来たりするようになってしまうのだろう。

そういうのを見続けていると疲れてきたり、しんどくなってくるいうのもある。


自分はなるべく変化が起きないように心掛けてはいるのだが、完全には無理であろう。

増えていく縛り

一箇所に留まり続け、そこで生活していると、余計なルールや仕来たりみたいなものが発生してくる。

それがコミュニティを守るのには不可欠であり、全てが善であるかのように押し付けられることがあるが、どうも苦手である。


そこまでに至ってくると、「ここも終わりだな」のような気分になり、離れたくなる。


土地でも人でも、組織でも、何に対してもだ。


関係性の維持にはストレスが発生する

強い繋がりを維持するのには、精神的な負荷が強い。

何もかもに対してストレスを抱えることの無い性分であれば、平和に生きていけるのだろうが、自分のストレス耐性は人一倍弱いと思える。


移動し続けながら生きていくのが良いのだう。


おわり。

他人に任せないようにしよう。



他人に期待したり、任せたりするのは楽なようで実は凄くストレスフルだったりする。

自分で何もかもやってしまうようにするより、他者を動かすほうが効率的だったり、労力も少なくて済むのは事実なのだけれども、使い分け次第という感じがしている。

使い分け次第と言った理由について書きたい。



人は誰もが絶対に間違える

人間の記憶は本当に当てにならないものである。
あの人の言うことなら絶対だろうとか、代わりに調べておくよと言ったから任せっきりでいいだろう、と判断しないほうがいい。
世の中には絶対というものはなく、どんなに日頃しっかりしている人でも凡ミスは犯すし、勘違いしてしまうこともある。
まずは、その事実を認識しておくことが大切だ。


自分で調べられることは、自分で調べる

手元にスマートフォンがいつでもある現代において、ちょっと気になることで調べられないものは殆どない。
すぐに探したい情報に行き着かなくとも、何回か検索ワードを変えてみたりすることで、答えに辿り着く。
また、電話で問い合わせたりするのが面倒だったりすれば、メールを打っておけばそれで済む。
少しやる気になればすぐに出来てしまうことについては自分でやってしまう習慣を身につけておいたほうがいい。
初めて行く場所の下見とかもGooglemapであらかた確認出来てしまうし、口コミとかのレビューを見れば周辺施設やその街の情報も得られる。



出来ることを増やしておくと、動くのが楽になる


少し分からないことや、考える必要があることにぶち当たってしまっただけで、ほっぽりだしてしまう癖が一度ついてしまうと抜け出せなくなる。

考えることを放棄してしまうと、損をすることがとにかく多いい。
払う必要がないお金を払う羽目になったり、多く取られたりするイベントは多発している。

少し調べるだけで、お金を遣わずにほぼ無料で済ますことの出来るものは多々ある。

出来る人がいるのだから、自分だけ出来ない訳がないと考えるようにしよう。



他人に任せないようにするだけで、ストレスが減る上に、お金は増えるようになるのだ。

ネット文化と共に育ってきた若者たちは凄い。


インターネットをみていると、すごい斬新な物の見方だなとか、新しい価値観だなみたいなコンテンツ・芸術的創作物・ネット文化に出会う。

そういうのを見たときは必ず、製作者の年齢を確認するのだが、大抵は歳下だ。

まだ20歳もいっていないような若者だったりする。

そんな時に世代の差というか、ジェネレーションギャップを強く感じる。新世代だなーみたいな。

身近な大人だけを見て育ってきた

自分はネットがない世代で生まれ育ってきたので、基本的には身の周りのものを自分で見たりしたり、周囲の人が関心を持つことを軸に生きてきた。
まあ、何というか親や身近な大人たちの考えや生き方が、完全に自分にインストールされ続けた人生という感じだろうか。

ネット世代の若者たちは、面白い価値観と共に育ってきた

それに比べて、産まれた時からネットが当たり前にあるような世代では、自分の中に入ってくるユニークな文化・サブカルチャー的な世界数が全く異なる。
こんなメチャクチャなことでもいいんだとか、そんなことを深く追求してもいいんだみたいな、価値観を揺るがされるような体験に出会いやすい気がする。

最初から持つ者は強い

後から得ていくよりも、自分にとっては普通のこととして変な文化を楽しんできた若者の方が、面白い人間になれていると思う。
真似することは出来ても、本物にはなれないな、みたいな想いが何処かにある。


環境というのは本当にすごい。

学生時代の罪の意識をぬぐい切れない。

学生時代、何の努力も行わなかった。

周囲の者は全て勉学に励み、きちんとその成果を出した。

進学校の理系コースであった我がクラスの8割は医者となった。

医者にならなかった者も、難関国立大学へと進学し、一流企業勤となった。

私は中途半端にもなれないほど、なにも成さず知を深めることもなく、ただ単に劣等感を抱え続けたのみであった。

卑屈になるくらいならば、努力をしたらよかったものの、その方向での気力が湧くこともなく、存在・気配を消すことで生活していた。

空気となることを望み、誰からも目を向けて貰わないように気を遣った。

完全なる闇の時代だった。


高校を卒業した後も、当時のことを頻繁に夢見ることがあり、うなされながら目覚めていた。

もうあの学校に通わなくていいという事実に気付く度に、心底嬉しかった。

だが、未だに当時の自分に苦しめられている部分はある。

堕落した、やるべきことを果たせなかった自己を何度も振り返ってしまう。
無知・無学であることを恥じている。

それに対する贖罪の意味で、ひたすら本を読むだけの生活を自分に課している節がある。

私の読書は、コンプレックスの表れに過ぎない。

例え将来、子どもが出来たとしても、その自分の罪を次世代に押し付けるような真似だけは決してしない。

自分が出来なかったことを、他人に強要するような人間は屑である。

やるべきことは自己への強要だけだ。

ほどほどに生きていく。

1年1年の経過がすごく早い。

まあ、色々あってその1つ1つを思い返してみれば、沢山のイベントや悩みごとなどが詰まっているのだけれども。

時の流れを加速度的に捉えてしまう原因は、記憶力の弱さが関係している気がする。

その瞬間、瞬間を懸命に生きているために、ちょっと前のことでも気に掛けている場合ではないというのもある。

同じことをずっと続けるのが苦手というか、すぐに飽きてしまうし、人付き合いも1つのグループにこだわったりが出来ない。

親睦を深めるとか、必要以上の馴れ合いみたいなものを苦手としている。

何かを得ては、それを棄て。
新たに知り合っては、別れていく。

1つの物だけをずっと手にして生きることは難しいと思う。
難しいというか、モチベーションを保ったり、気持ちの方向性を一定にするのは難しい。

何事も頑張り過ぎずに、ほどほどに生きていくのが1番いいのかもしれない。

苦手な相手はブロックしていけばいい。


Twitterとかでブロック機能を多用することは、自分の価値観の幅を狭めるみたいな意見をたまに見掛けるが、果たしてそう言い切れるのかなと疑問に思う。

何だかムカつく人だとか、不快感をどうしても抱いてしまうような相手と仲良くする必要はあるのだろうか?



リアルでの付き合いと同じ

現実社会において、嫌な人と付き合わない、意見の合わない人や価値観の異なる人たちと無理矢理関係性を継続させていくことはしていないはずだ。

誰ともでも仲良くしておいた方が得だという考え方もあるが、別に付き合いの回数を減らしたり、ある程度の距離感を作っても、それが不仲であることとイコールとはならない。

どんなに親しい間柄でも、四六時中行動を共にすれば嫌になったりするし、年1回しか会わない相手でも、仲がよければすぐに盛り上がれる。


ネットでも嫌な相手とは距離を取る


そういったことを考えていくと、嫌な相手とは付き合わないということをネット上でも同様にやっていけばいいんじゃないだろうか。

少し見掛けただけで不快感を抱くような相手に対しては、目に入らないようにブロックしてしまえばいいし、情報が表示されないようにしたらよい。

人としての幅は狭められない

その程度のことで、考え方や生き方の幅が狭まれるとは到底思えない。

嫌な人と無理に交流したりして精神を消耗するよりも、自分にとって楽しいと思える相手と過ごす方がよい。


いつ死ぬか分からない人生において、優先順位の低い事柄に構っている暇はない。