思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

【感想】『夫のちんぽが入らない』(著者 こだま 出版 扶桑社)を読んだ。

『夫のちんぽが入らない』を読んだ。

学校教師として働く若い夫婦の物語。
大学生時代から2人は付き合い始め、そのまま結婚に至る。だがその間に1度もまともに性行をすることが出来ない。
何度も挑戦を試みるも血みどろになってしまい激痛を伴う。行為に至るどころではなくなってしまう。
タイトル通りの話である。

妻はネットで知り合った不特定多数の男性たちと身体を重ねる流れに中盤でなる。
その男たちとは普通に最後まで問題なく行為をすることが出来る。
夫は風俗を頻繁に利用する。夫側もまた、妻以外の相手ならば問題なく行為を行えることを知る。

特に病院にその入らないことについて相談するわけでもなく、直接的な解決策を求めることもなくどんどんと時間が過ぎていく。
たまに思い付きの打開策を試してみるが、どれもその場のみのものであり、何かに繋がる訳ではない。

物語は性行のみが問題というわけではなく、学級崩壊により妻の精神がズタボロになったり、夫もパニック障害になったりと
メンタル的にもおかしくなっていく。

また、歳を重ねるにつれて、子どもがいないことへの周囲からの圧力みたいなものを感じるようになっていく。
結婚をしているのに子どもがいないという状況は、世間からはおかしなものとして捉えらるということがよく分かる。


『夫のちんぽが入らない』は強烈なタイトルである。サブカル層に媚を売っているかの様な印象を受けたため、読むことを避けていた。

だが、実写化や漫画化が決定したということを知り、再度注目されるようになると、ますます読む気を無くしてしまいそうで、その前に読むことにした。

文章は上手いなと感じた。
どのシーンも自然と頭に映像が浮かんでくる様な描かれ方がされてある。
また、回りくどい物語の進め方をせず、割合テンポ良く展開されていくので、手軽に読み終えてしまう。

エッセイということで、著者のこだまさんの実体験なのだろう。

現代的な葛藤を幾つも散りばめられてあるので、何処かが自分の生活の悩みと重なる部分が出てくるのではないだろうか。

親との関係性、結婚や出産に関する世間からの目、職場での人間関係、パートナーとの関係性。

人それぞれ、他人には言えない様な悩みを抱えていて、それをずっと背負いこんだまま生きている。
誰かに解決してもらう訳にもいかず、自分でいつか何かの形で消化していくしかない。

読んでみると心が救われたり、逆に悩みが深くなってしまったりと、様々な反応が生まれる本なのではないかなと思う。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

なんとなくお金を遣うことに罪悪感がある。

お金を遣うことに罪悪感がある。

10,000円以上の買い物をすると凄く心苦しくなったり、しばらくモヤモヤが続いていく。
支払ってしまったものは仕方がないのだから、気にしていてもどうしようもないのだが。

本当に生活に必要なことに対してならば、幾ら払おうとも気にはならない。
だが、買わなくても生きていけることや、なんとなく周囲に流されてとか、自分が主体になっていない状況での買い物ほど精神的にしんどいものはない。

昨日、たまに訪れる馴染みの服屋で20,000円くらいのトレーナーを買って、心がうぉー!てなってしまった。

いつも買わずに、ただ会話をしに行ってばかりだから、たまには買うかみたいな気持ちで買った。
少しは貢献するか、みたいな。

先日、UNIQLOで極暖のヒートテック上下、計3,000円の買い物で買うかどうか、数時間悩み抜いたのに今回は10分くらいで決断してしまった。

素材もデザインも良いし長持ちする系の服だけど、別に必需品てほどでは無かったから買わなくても良かったんだけどな。


学生時代は、全財産20,000円しかない状況で15,000円の服を買うみたいな意味不明な行為を頻繁に行っていた。
後先考えずに消費活動を行なっていた。

別に今は全財産が20,000円という訳では無いけど、労働を避けるためには少しでも消費は抑えねばならない。

んー、、やはり今回の出費は痛手だな…。

お金を遣うことがとにかく苦手だし、すぐに罪悪感とか心苦しさに支配されてしまうことを改めて実感した。

ブログを書き続けたい、3つの理由。


ブログにはある程度は目的というか理由があるほうがいいのかもしれない。

仕事を辞めてブロガーとして生計を立てていくことを決めたかたが、路頭に迷っている感じになられていた。
地元を離れて地方移住までしたのに、苦悩されていてなんだか辛いなと思った。

たしかに熱意というかブログを通してなにを伝えたいのかよく分からないという雰囲気はあった。

これが好きなんだろうなというのも不明瞭だったし、どこかで見たようなグルメレポや商品紹介がメインに来ていた。かといいアフィリエイターを目指している風でもなかった。エッセイ的なブログという訳でもなく…。


そんなことを書いてはいるが、まあ自分もたいして理由はない。

ここで、自分がブログを書く理由を並べたい。

自己を客観視できる

日頃、思ったことや感じたことを文章として残していくことで、第三者的視点で自分を観察できるというのが主だった更新事由にはなっている。
頭の中だけで考えていると、思考が漠然としたものになる。また、そもそも何を悩んでいるかとか、何を考えているかが自分のことなのに理解できないことがある。
文章化しておくことで、それが見えてきたりする。

言いたいことを伝えるトレーニング

面と向かっての会話はリアルタイムで進んでしまうために、後からもっと良いフレーズとか内容を思い付いたとしても訂正が難しい。
しかし文章ならば何度でも書き直しが効くし、書き足していけるので1つの事象に対して多面的な視点で説いていきやすい。
自分の意見を述べるにはブログは適切なツールだ。


気持ちの共有をしたい

自分はズレているんだろうかとか、この考え方は間違っているんじゃないだろうかとか不安になった時。
何か面白いことを考えた時に、誰かに伝えたくなる。
その気持ちをシェアするのにブログは向いている。
現実では、なかなか言いにくいことも言えてしまうし、はてな匿名ダイアリーとかを使えばどこの誰かも完全に隠すことができる。



大きな目標とか意識の高いモノを持つ必要はなく、ブログは自分の成長を促す外部装置的な感じだ。

ブログを書かない人生と書く人生とでは、後者のほうが楽しいなと感じる。

毎日、淡々と書き続けるだけという地味な作業だけれども、なかなかに面白い。

死がすべてを停止させる。


死んだら何もかもが終わる。

記憶の中に残っていくとか、偉業が後世に伝わりその人の技術や作品は生き続けるとか言われても、その人の生命は事切れている。文化の伝承、ミームは受け継がれるとかでは納得出来ない。

まだ生きていたら更に面白いものを生み出せていたんじゃないかとか、楽しいことが沢山あっただろうとか考えてしまう。

亡くなった人は、その命が止まった時刻が人生で1番新しい瞬間になる。それが永遠に続く。

当時はまだ未公開であり、予告のみ上映されていた映画を楽しみにされていた故人のTwitterアカウントを見たりすると、なんとも言えない心地になる。
もうその映画は劇場での上映を終えて、今はTSUTAYAなどのレンタルショップでDVDが並んでいて、準新作から旧作になろうとしている。
それくらいの時が経過している。


人はいつ、突然死んでしまうか分からない。
どんなに努力をしようとも何もしなくとも、訪れる場所には訪れるのが死。

少しでも長く生きて、面白いことや楽しいことを知っていきたいし能力も磨いていきたい。

有名な方の訃報を聞くたびに、そのようなことを考えてしまう。

もっと面白いことを見つけていくために。流れに逆らわず生きる。


それなりに色んな人間に会ってきたし、経験も積んだような気がしている。
興味を持てたことに対して挑戦してきたつもりもある。
面白そうな本も色々と手にとってきた。

だが、まだまだ不足しているのだろう。
行動量を増やしていき、まだ自分の知らない世界をもっと見ていき知っていく必要性があるのだろう。

面白いモノに日常的に触れてない人間は、少しだけ面白いモノに触れた時に騒ぎ過ぎてしまう傾向にある。
そこまで面白くないモノを大げさに捉えてしまう。
これはその人の世界の狭さを体現することになる。
純粋なんだよ、と言ってしまえばそうなのかもしれないが、もったいなく感じる。

もっと楽しいことや興味深い話は世の中に沢山あるのだから目を向けていくようにしたい。

ルーチンは安心の確保にはなるが、発展性がない。
それだけはなるべく避けたい。

いつもの決まったメンバーで同じことを繰り返していくような生活が自分には合わない。

毎々、完全に異なるとなれば長期的な関係性を築きにくいとかのマイナス面も発生することはするが、面白さがそこには常にある。

もう名前も顔もはっきりと思い出すことが出来ないような相手が数えきれないほどにいる。
そんな感じに生きてきたから、連絡を取れなくなったり疎遠になることに抵抗が全然ないというか、そんな関係が当たり前のように感じる。

必要以上に誰かに固執してしまうこともないし、全ては流れ行くものだとの考えがある。
流れを変にせき止めてはいけない。
そこの空間は淀み始め、腐敗していく。
勝手に循環が生まれるのを待つだけにする。
無理をしなくとも、途切れない相手は時たま現れてくる。
たまにそんな人に巡り合いながら、あらゆる世界に触れて生きていくのが1番いいかもしれない。

99%の努力は、不透明でしかない。1%のひらめきのみが注目される世の中。

トーマス・エジソンの名言に「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」とある。

1%のひらめきを例え持ち得ていようとも、その後の99%の部分を補える能力を備えていない限りは1%のひらめきは無駄にしかならない。

多くの人間は、ひらめきのみが重要であり、独創性が強く価値のあるアイデアを生み出しさえすればそれでいいのだと勘違いをしている。そんなことはない。
紛れもなく、99%の努力を埋めていくだけの根気や思考力が必要である。

例えば、物書きであれば作品を最後まで書き上げていくだけの努力が求められる。
どんなにすぐれたネタを捻り出そうとも、それを文章として完成させていくことが出来るかどうか、それが問われる。
出来なければ、それは無かったことになる。

どんなに素晴らしいタネを持っていようとも持っているだけではダメなんだ。
それを分かっているのか、分かっていないのか。
曖昧な人間たちが多くいる。

本来、無から有へと転換させていく作業は実に面白いはずである。
だが、それが苦痛でしかなかったり、すぐに成果を知ることが出来ないがため、根気負けしてしまう場合が多数見受けられる。
よりもっと長期的な視点で考える必要性がある。
短期的に損得勘定を働かせてしまうと、人生は味無く失敗に終わるのではないだろうか。
少しだけ頑張ったつもりになったところで、自己満足にしかならないのだ。

何年、何十年と成果が出ないかもしれない。
それでもただ、目の前に用意された課題を1つずつ片付けていく。その際には、自分なりの解釈力も駆使するべきである。
ただ単に与えられたことだけを遂行していけばいいというのは凡人への道でしかない。
非凡であるためには、常に頭を働かせておくべきだ。

同じものを見て、同じものを感じて生きていようとも歴然とした差は生まれていく。
消費一辺倒な生涯を選択するのでなく、自分の中に取り入れた事象を他所へ別の形に変換させて出力していくべきだ。それが出来てこそ初めて、非凡へと歩みを進めることが可能となる。

頭を遣うことや悩むこと、自分には才能が無いと打ちひしがれること。
これらを恐れてはいけない。避けてはいけない。
淡々と現実を受けれていく。ダメな自分を知っていく。

あらゆることへ常に挑戦をし続けている人間たちは、自分の不甲斐なさ、無力さを痛感している。
そのため、いつだってより高みへといくことを考えるようになるのだ。

現状維持、他人との同調、自己満足。
その世界にどっぷりと漬かってしまえば、何も考えることがなくなる。
自分を上昇させていく必要性がなくなる。
マジョリティに巻かれることに最高の居心地を感じてしまい、マイノリティは排除の対象としか認識出来なくなる。こうなった人間たちは最高に愚かだ。

自分と違う世界を知る者、見えているものが異なる人種に対して、嘲笑の対象でしかなくなる。
異端はくじかれてしまう運命になる。

だが現代社会において、異端者たちがこうも経済を発展させていくことに貢献しているにも関わらず、それを受け入れられないものなのか。

他人に差をつけられていくことが怖いのだろうか。
いつまでも同じフィールドで過ごしたいと考えているため、その安息の地を壊そうとする人間が憎いのか。

誰もが読まないであろう本を読み、誰も見向きしないような場所を訪れ、誰もが知らない映画を観る。
数多くの様々な種の情報を、手にかざしていく。
自分が本当に望むものだけを見ていく。どのような人間であるかを知っていく。
少しも関わりたいと思わないことには近付かないようにする。
少しでも関わりたいと思えば、そこに踏み込んでいく。

手にしては、手放して。
出会っては、離れて。
何かを知っては、忘れて。

そうやって生きていく。

99%の努力。
これを実現させていくための手短な手段はなにか?
それは、至って簡単である。
最終目標に向けたプロセス書き出していく。
余計なことは一切しない。回り道をしない。
他人の意見に耳を傾けない。したくないことはしない。
したいことだけをする。
自分の中身を使い分ける。
演技は必須。
どの様なキャラクターを演じようともブレない軸を持て。
自己を切り分けること。これが出来ないようであれば生きるのが下手な証。

本当に大切なことは、お金がほとんど掛からない。
どうでもよく、いつ消失しても問題が発生しないような事項に対しては、いつまでも多額の費用を求められる。

完全に自分を納得させられる人生を取得することは困難だ。
だが、そこに近付く努力は継続させていかねばならない。
それは目には見えにくい世界である。
他者より言語化してもらうか、何かしらの実績を残せない限りは不透明が続いていく。

努力は見えない。
どんなに積み重ねようとも、それを理解してもらえる可能性はいつだってわずかばかり。

1%のひらめきだけが注目されてしまう世界。

夢の中で、小学生の頃に感じていた幸福を思い出した。

夢の世界は暖かく平和であり、希望に満ちている。
目覚めたと同時に、内容は忘れてしまったがとにかく幸福な夢だった。

小学生の頃に感じていた、世の中の仕組みは分からないが大人たちに守られながら生きている。見えない壁に阻まれた城に住んでいる感覚。
それを思い出した。

何も知らないこと、無知であることが不幸でなかった時代。
全ての人間が横並びであり、不必要なほどの縦の世界が存在しなかったあの頃。

その感覚を久々に思い出した。

無限に無駄な自堕落な時を過ごそうとも誰にも咎められない、不思議な感覚。
世界の情報が常に押し寄せてくることもなく、目の前のことだけをぼーっと眺めていればよかった。
他人に置いていかれるだの、いち早く他人よりも良質な情報を手にしなければ負け組になるといった、競争性も無かった。

インターネットの存在が無かったことも良かったのかもしれない。
今は、嫌でも他人のことを知ってしまうし、対処しきれない膨大な量のニュースが入ってくる。

恐れなど何もなく、妬みや恨みも存在しなかった時代を再現したくなった。
それと同時に、いかに日常的に数多くのストレスに晒され続けているのかを認識した。

今の一瞬、一瞬だけを見つめながら生活していく。
野生的な、動物的である人生。
それは本当に美しく、どの様な富にも勝る幸福な世界だと考えている。