思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

自分が書く文章が嫌いになった。



よく分からないけど最近、自分の書く文章が嫌いになってきた。
それが原因で、何かを書く気になれない。

以前は、ちょっとしたことでもブログに残しておくかという気持ちがあったのだけど、何かを経験してもそれを言語化する作業に魅力を感じなくなってしまった。

自分は記憶力が無いので、とにかく忘れてしまってもいいようにと備忘録的に書いてきたのだが、別に忘れてもいいじゃないかという思いになっている。

本当に覚えておきたいことや、印象深かったことは勝手に脳内で反芻(はんすう)していて忘れないようになっているし、意識的に文章にしないと忘れてしまうようなことは、自分にとってたいした重要性は無いということになるのではないか。

自分が過去に書いた文章を読み返してみることなんてほぼ無いし、そもそも書き終えた時点で完全に興味を失ってしまう。

小説風に書いた方がまだ少し読み返してみる気になれる。
他人の作品を読んでいるような気になれるというか。


書きたい気持ちを強くしていくためには、とにかく書き続けるしかないのだろうし、どんなに書き続けていても上手くなる保証はないし面倒だなとしか思えないけど、消費だけの生活は味気ないので、書きたくなる。

働いていても、自分が好きなことを忘れない大切さ。


新社会人が世に解き放たれた。

どんどん社会に馴染んでいき、角の取れた丸い人間になっていくのだろう。

尖り続けろとか、反抗的に生きていけとは言わない。
そんなやり方をしてみたところで、自分が辛くなるだけだから。
だけど、自分が何者であるかを忘れないようにしていくことだけは本当に重要だと思う。
そのことについて書いていきたい。

職場での役職・肩書きをアイデンティティにするな

自分の職場での役職を、自己存在意義として捉えていくと、人生の幅は狭まっていく。
所詮はロールプレイングであり、与えられた役割を演じているに過ぎない。
なのに、それが自分のすべてであり、それ以上でもそれ以下でもないと考えてしまうようになる。
そうなってくると、自分の仕事に関係していることにしか目が行かなくなり、興味も持てなくなる。
仕事に関する話題しか喋れない退屈な人間になっていくことだろう。

会社を辞めてしまえば、あなたは、ただの人間でしかない

仕事を辞めてしまえば、あなた、ただの1人の人間でしかなくなる。
会社の外の人間からしてみれば、ただのオジさんであったりお兄さんでしかない。
自分が今勤めている職場でしか通用しないスキルしか持ちえていないと、辞めた時には何も残らない。
はっきり言って、自分の力でSNSのフォロワーを数千単位で集めている人間の方がよほど凄いことのようにしか思えない。

好きなことを忘れないために、続けていく

働きながらも、自分を見失わないためには、役職でしか自分を語れない人間にならないためには、好きなことを継続していくことが至極大切だ。

これをやっている時は、どんなに面倒だろうとも苦痛に思えない。
そう感じるものが自分に何か1つでもあるのならば、それを続けていく。
それくらいしか、道を切り開いていく方法はない。

自分のバランスを調整していく

仕事人間になっていくと、仕事に関係する話題にしか目がいかなくなる。
その傾向を緩和するためには、生活のバランスを調整していく必要性がある。
では、どのようにしていけばいいのか?
それは、なるべく自分にとって未知の領域に属している人間たちと接していくことをオススメする。
また、本を映画などに触れ、多様な文化、価値観を学んでいく姿勢が求められる。
それによって、世の中の広さみたいなものを常に意識できるようになる。

お金を稼ぐことだけが、仕事じゃないと考えていく

会社で働いてお金を得ることのみを、仕事だと認識しないようにすることが大切だ。
先ほど挙げた、人に会う、本や映画を観るなどの、直接的にはお金にならないようなことも、自分の幅を広げていく仕事だと考えて行動するようにするといい。
してみたいなとか、やった方がいいんだろうなとか、それくらいのモチベーションでい続けても、なかなか行動に移せなかったりする。
だけど、仕事だと考えてしまえば、行動しなければという気持ちが強く働くようになる。ジャーナリストの佐々木さんの新刊『広く弱くつながって生きる (幻冬舎新書)』にこの話題は出てきた。



仕事をいい加減にしろとか、職場の人間とは一切口をきくこともなく、殻にこもっていろなどとは言わない。
だけれども、会社が自分の人生の全てになってしまうと、本当に視野が狭くなる。
そうならないために必要なことを、書いてみたつもりだ。


世の中の広さを常に意識していこう。

休日に出かけることも、仕事と考えて行動してみることの必要性について。

人に会う、出掛けてイベントに参加する、展覧会に行く、などの行為も仕事のうちだと思うようにしていけば、行動力がアップしていくんじゃないかと考えている。

「なんで休みの日に何処かに行かなきゃいけないんだよ、家でひたすら1人でじっとしていたいんだよ」という気持ちが最近はめちゃくちゃ強かった。

家にいるあいだも、任天堂Switchで『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド - Switch
延々とプレイしているだけで、まともに本も読んでないし映画も観てない。
本や小物を売ってお金にするとかも出来なかった、面倒で。
これまでに身につけたいなと思っていた習慣とかが抜け落ちてしまった感がある。
かろうじて自炊だけはコンスタントに継続していたけど。
「ブログすらもすごいだるくて、更新する気になれない」という感じになっていた。
まあ、ゼルダが本当に面白くて、というか面白過ぎて他のことを何もしたくなくなる位の名作というのが原因ではある。
外に出る必要もないくらいに、やることが沢山あるゲームでヤバい。


頭が全然働かないというか、言葉が全然作れなかった。Twitterでひとこと何かをつぶやくだけでも無理だった、ほとんど。

なんだか疲れていたのかもしれないが、たいして最近は労働も沢山しているわけではないので、よく原因は分からない。


何もしないってのも良いことだし、そんな期間もいるにはいるけど、動き出さないといつまでもその状態が続いてしまう可能性はある。

休みの日に知らない人間たちと交流したり、イベント参加などすることは、自分に変化を与えるための仕事だと考えていくようにしたい。なるべくは。

そして、そこで見たことや感じたことを言語化していき、記録に残していく。
昨日読んだ、しみけんの『AV男優しみけん ?光り輝くクズでありたい』のなかで、しみけんはめちゃくちゃメモ魔だということを知った。
どんなことでも全部書き残していくようにしているらしい。せっかく面白いことがあっても、忘れてしまってはもったいないと、メモを取り続けているとのこと。
それこそ、その時間に2、3時間は費やしているレベルだとか。すごい。

人間は忘れるように出来ているし、どんどん記憶から抜け落ちていくので、それくらいの勢いで書き残していくのがいいのかもしれない。自分ももっと書くべきなんだろう。
だけど、どうせ書くならネットに載せて公開していくほうが良いなとか思う。ノートとかに1人で書いても、なんだかつまらない。
誰かに見てもらっているという感覚があるほうがモチベーションにも繋がるし、きちんとした文章にしようという気持ちが湧いてくる。ただ、具体的な名称だとか、リアルの知り合いに見られるとマズイ内容は書けなくなってしまうので、書く内容に制約が出てしまうけど。

色々やって、それを記録に残して、自分の行動ログを更新していくかな。
どんどん知らない世界とかに足を踏み入れていきたい。

記憶力が弱いので、なるべく記録を残しながら生きていくのがいいんだろうなと思っている。


自分は本当にとことん記憶力が弱いなと感じる。

どこで何をしたとかすぐに忘れるし、何を考えたのか思ったのか、何をしようとしていたか、あらゆることが頭から抜け落ちていく。

自分の頭は信用ならないので克明に記録を残していかなければならない。

全てを覚えておく必要なんてなくて、忘れていても、ふとした瞬間に蘇ってくることもあるし、身体が覚えているというか、無意識のうちに血肉になっていることもある。

だけれども、そういえばこんな体験をしたんだよなとか、こんなに感動していたんだなとか、こんなことに興味が強くあったんだなとか、過去の自分が別人かのように思えてくることは多々あるので、それを文書として読み返すことは楽しい。

自分はあまり書かないのだけれども、何かについて調べて自分なりにその情報を再編成しておくことも、勉強になったりする。
そこにはすっかり忘れ去ってしまった知識とか情報が詰め込まれていたりして、役立つ。

まあ、あまり自分の書いた文章を見返してみることはなくて、結構投げっぱなしな場合が多いのだけど。
書き終えたことは自分のなかで終わってしまったことになる場合がよくあるので、興味を失ってしまうのだろう。
似たようなことばかりぐるぐる考えているから、読む気がしないってのもあるけど。

些細なことでもいいし、過去のことでこれは書いておいたほうがよかったなと思えることが見つかれば、それを文章にしてしまっておくのがいいのかもしれない。
そのまま日記として脚色せずに書いてもいいけど、小説風に仕立てて、アレンジを加えておくほうが、自分の妄想も上手い具合に盛り込めて、良い文章になったりする場合もよくある。
あとは、恥を捨てやすいというか、これはフィクションなんだから自分とは関係ないんだよと思えることがすごい気楽だったりする。

ゆっくりと過去を掘り起こしてみると、それこそ無限に出てくる。
断片的な話題が多くなるけど、それを上手い具合に組み合わせていければ、そこそこ長い一本の小説になっていくんだろうな。

私たちは納屋に閉じ込められている。 映画『Room ルーム』を観て。

ルームという映画を観た。
ルーム(字幕版)


17歳の時に知らない男に拉致されて、そいつの自宅の庭にある納屋に7年もの間監禁され続けていた女性の物語。

男からレイプされ、男の子を1人身ごもった。
そしてその男児、ジャックを納屋の中で女性は育てることにする。

映画としては、既にジャックが5歳になるところから始まるので、赤ちゃんの頃のシーンとかが出てくるわけではない。


食べ物などの物資は、男が定期的に納屋の中へ持ってくるが、望めば何でも渡してくれるわけではない。
また、非常に暴力的であり、いつ2人は殺されてしまうとも限らない。

そんな状況から脱するために、とある計画を企てる。

高熱を出し、嘔吐を繰り返してしまうほどにジャックがひどに病状にあるとの演技を行い、病院に連れて行ってもらおうと考える。ジャックにはメモ用紙を持たせ外の人間に宛てたメッセージを託す。

だが、1度目はその計画は失敗する。
男は、強い抗生物質を明日持ってくるとの言葉を残したのみで、すぐに去ってしまう。

そこで諦めるわけにはいかない。


今度は、ジャックの容態が悪化してしまい、ついには死に至ったという演技をする。

ジャックをカーペットでぐるぐるに巻いてしまい、見えないようにする。
そして、お前が助けてくれなかったせいで、この子は亡くなったんだ、その汚れた目で決してこの子の亡骸を見るなと忠告する。
男は了承し、遺体を破棄するために、外に持ち出し軽トラックの荷台に積み込む。


トラックが、信号などで停車する瞬間を狙い、ジャックは脱走する。

男はすぐに気付き、連れ戻そうと追いかけてくるが、犬の散歩をしていた人に、助けてもらう。

そこからようやく、ジャックと母親は救出されることになる。


これで2人はようやく幸福を掴めることになる。
と思いきや、そうはうまくことは進まない。

娘が消えたことにより、両親はうまくいかなくなり、すでに離婚していた。
父は、ジャックの男親が誘拐犯であることから、ジャックを受け入れることが出来ない。1度もジャックを見ようとせずに、去っていく。

世間からも、ニュース番組からのインタビューを受けても、なぜジャックを自分で育てようとしてのか、産んですぐに、どこか施設に預けようとは思わなかったのか、なぜ納屋で暮らすという辛い選択をジャックにもさせたのかなどとの批判を受ける。被害者でありながらも。
精神的に追い詰められ、自殺未遂までに彼女は至ってしまう。
だが、それでも2人は強く生きていくしかない。
人生を一度壊されてしまった過去を受け入れていきながらも。

無事に脱出できてよかったね、で終わらずにその後も辛い現実が待ち受けているリアリティがきつい映画だった。




またジャックは納屋が世界のすべてであり、それ以外のものは現実には存在しておらず、テレビのなかだけの作りモノであり、夢物語だと思っていた。
(納屋にテレビがあった。)
納屋の外側は宇宙であり、決して出ることができない、存在しない世界なのだとばかり考えていた。
その辺もすごくリアリティ溢れるリアクションだなと感じた。
生まれてこのかた、納屋のなかだけで過ごしてきたら、間違いなくそうなってしまうだろう。
そしてこの感覚は、程度は違えど我々にも多少は当てはまるのではないかと思う。

自分が認知できている世界、理解に至れることだけをこの世のすべてだと考える。
触れたことのない文化や伝統、習慣は受け入れることができない場合が多々ある。
私たちもそれぞれ、サイズの異なる納屋に閉じ込められているようなものだ。

外の世界は宇宙だと考えている。
その壁を乗り越え、ジャックのように脱出する勇気を持たなければならない。
そこには、素晴らしい世界が広がっているはずだ。
どんなに辛いことが待ち受けていようとも、選択肢の限られた納屋のなかで暮らしていくよりも、遥かに明るい未来が待っているはずだ。

ルーム(字幕版)

ルーム(字幕版)

良質な情報は書籍からしか得られない。

ネットで断片的な情報や知識を集め続けても、そこから何かを考えていくのは難しい。

良質なものばかりでなくて9割ぐらいはゴミみたいなものなので、その中から良いものを見つけだしていくのは至難の業。

やはり一つのテーマに対して300ページぐらい使って、うだうだとデータをまじえながら考察してくれる書籍媒体のほうが使い勝手がいい。

まあただ、図書館に通い続けて本を借りるのも面倒だったり、なかなか行けない日が続いたりもするし、新刊を買い続けるのも案外出費がバカにならないので、難しい。
あと、買いすぎると物理的な問題も生じてくる。保管場所に困るというもの。

自宅にいて手軽に情報に触れるとなると、ネットをついつい利用してしまう。
だけど、頭が熱くなるくらいに興奮するようなネタに、ネットでは出会わないんだよな。
電子書籍を買えばいいのかもしれないけど、だいぶ慣れてきたとはいえ、読みやすくはない。
あと、あまり読み返したりする気になれない。何をそもそも所有していたかも分からなくなるし。

したいことが見つからなかったり、なんかやる気がしない時は、だらだらっと本を読むに限るのだけど、常に手元に未読の本がある状況を保つのは難しい…


そんなことを考えていると、またネット記事を眺めているだけになってしまったりするんだよな…。

抽象的な話を書き続けていくことは、難しい。


これまで文章を書く際に思っていたこと。情報を集めたり何か元ネタがある上で書くことは非常に大変だ。何もないところから、自分の頭のなかからだけで作り上げていくことは簡単なことである。

そう考えていた。
だが、ゼロの状態から作ることのほうがよっぽど大変な作業なんじゃないかと考えを改め始めている。

自分の中にある想いは漠然としていて、それを全て文章に書き起こしていく作業は曖昧なことで非常に単純なものだと思っていた。
だけれども、その雲を掴むような感覚で書いていくは結構しんどくもあったり、その割にはなかなか共感も得にくかったり、そもそも伝わらない場合が大半である。
なぜ、伝わりにくいかといえば、完全に全てが一致する他人はいないという事実が要因である。
感覚的なものは難しい。

それよりも、何かのニュースを取り上げたり、書籍を紹介したり、食べた物を評価したり、訪れた場所を書いたりとか、そいうう具体的事象を取り扱っていくほうが分かりやすい。

抽象から抽象へと、あやふやなままに突き進むよりも具体から抽象へと、何か明確なものを取り扱ったうえで、自分の心理を現す抽象へと繋げていくほうがいいのだろう。いや、それよりも、自分の余計な感情など一切絡めることなく、事実のみをあげつらえていくのがいいのかもしれない。


そう考えてみると、延々とエッセイ的な文章のみを作成している人とか、詩を書かれている方とかすごいななんて思ってしまう。


何をするにしても、ゼロから作り上げていくことは大変だな。