思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

ネタなんか要らない。

今週のお題「ブログ川柳」


「書くこと無い。

ネタがないこと、

ネタにする」



あると思います。



というわけで、ブログで書くことが見つからない時は、その見つからないという話自体をネタにするのは実にいい逃げ道だと感じます。

【目次】


ブログの話は比較的読んでもらえる


ブログを好んで読むような人は、ブログを自分自身でも書いていることが多いです。
そのため、ブログ運営上での困ったことや、嬉しかったこと、悩んでいることなどの話については、読んでもらい易いと感じます。

入念な下準備を必要としない手軽さがある

自分がブログを書いている時に感じたことなどを書いていけばいいので、必要なのは経験だけです。
よって、自分の中にある物だけで書けてしまうので下準備を要しません。


あまり真面目に考えすぎない方が気が楽


ブログを長く続けるためには、真面目に過ぎないことがポイントだと思います。
真面目な人は全力で駆け抜けて、そのまま力尽きて消えてしまうことが多いです。
これからこの人は伸びていくのだろうなと思った矢先、消息を絶つパターンは多いです。
反して、このブログは一体なんなんだ、、みたいな感じの所のほうが何年も続いていたりします。

なので、ブログに書くネタが無い!って話をネタにするくらいの軽やかさは必須です。


今回は川柳に便乗して、更新できてよかったです。


おわり。

人生は卒業が続いていく。

【目次】


人の居場所ってのは常に移り変わっていっている。

本人が気が付いていないだけで、どんどん「卒業」を繰り返しながら新たなステージに向かっている。

「卒業」は学校だけじゃない

卒業が存在するのは、卒業式が行われる学校という場だけではない。
友人関係の移ろいであったり、好きなこと興味のあることが変わっていくことであったり、それらは全て卒業に当てはまる。

馴染めなくなったら、そこは過去の場所

なんだかいまいち馴染めなくなったり、興味を持てなくなるのは、そこがもう自分の居場所でなくなったから。

違和感は常に正しい。
自分の感覚を信じて間違いない。

始めては捨ての繰り返し

何か新しいことを始めてみて、今度はそれを捨てて、また別の何かを始める。
そうやって生きていく。常に「卒業」は
繰り返されている。

そのなかで何か1つでも大切にしていきたいモノが見つかれば幸運だ。


おわり。

ブログを上手く更新出来ない気分になってきた。

【目次】


ここのところブログに書きたいことがなくて少々やる気が削がれてきた。


ブログとは何のために存在しているのか

あぶく銭を稼ぐためにか?
ポエム的な文章を書いて自分の何かを満たすためにか?

ターゲットを考えろとか、何か1つ価値を提供しろとか、タイトルはビックワードを盛り込んで検索に引っかかりやすくしろとか、そういうブログ運営論みたいなのを読んでいたら疲れた。

多種多様な世界

生物界と同じくブログの世界も随分と多種多様な形が存在し、方向性や資質は幾通りもある。
誰かをまねてみたり、なりきってみたりすることはいいけれども、それだけをしていても自己を喪失してくる。


書いても書いてもよく分からない。

もう3年位は書いてきていると思うが、いまだに分からない。
簡単に書けるようになるのだろうなと思っていたのだが、そんなことは無かった。
文章を作ることの難しさとか、忍耐強さを求められることが理解できた。

毎日更新している人たちはスゴイ

毎日バンバン更新して、なおかつヒット記事を産んでいける力を持っている人たちは凄い。
それだけの熱量を持てることは素晴らしい。
「好きの力」であることには間違いないのだが、それ以上に自分の弱点とか改善点を分析して次に繋げていけているところが、尊敬出来る。
それに反して、自分は延々と同じような感じに生きている。
ある意味の安定感ではあるが、それは停滞である。




とりあえず、新しいことを始めてみたり、面白く生きるエネルギーが欲しい。



画像は、今日撮った田んぼ。
なんか凄い色してる。

狭いコミュニティ内での恋愛問題について。

【目次】


狭いコミュニティでの恋愛の話とか、もつれが何となく苦手だ。

苦手というのは嫉妬的な面よりも、外の世界を知らないがために、血で血を洗うような争いが行われることに対する虚しさみたいなものに近い。

ちなみに狭いコミュニティとは、大学のサークル、バイト先、勤め先のことを指している。


学生時代のバイト

自分がかつて学生時代に勤めていたバイト先でも水面下では色々と男女のイヤらしくギスギスした闘いは行われていた。

バイトを辞して随分と時が経過してから詳細は知ったのだが、あの頃の「何とも言いがたいイヤな空気」はそういう意味があったのだなあと思わされた。

手短かで済ませたいのか、そこが全てと思い込むのか


よほど気にいる相手であったり、相性がいいとか、そういうのでもないならば、手短かにいる存在という理由のみで、どんどんとのめり込んでいってしまうのはいかがなものかと考えている。


いくつかのコミュニティに属する重要性


自分の所属している場を増やしていくことは、生きやすさや、精神衛生上の面で良いという話はこれまでに幾度もしてきた。

だが、それと同じくらいに、複数の居場所確保は恋愛面においても大切なことだと考えている。


一箇所にしか居場所がなければ、そこにいる異性に、どんどんと泥沼の如くのめり込んでいく可能性は極めて高い。


しかしながら、あらゆる場で異性に触れ合っていくことにより、世の中には多種多様、沢山の異性が存在しているのだなと、当たり前のことを深く理解させてくれる。

だが、そのことに気が付いていないがために、変な面倒ごとが起きてくるだ。


閉じた空気を悪用した「オタサーの姫」現象

ひと昔前に流行った「オタサーの姫」はこの性質を逆手に取った、悪しき趣味だと自分は思う。

その女性本人に自覚があるかないかは別として、異性と交流する場が1つしかない男たちが集う所に、ポツンと紅一点で存在することは争いを生むに決まっている。



まあ、要はモテる経験を体感してみたいのならば、異性に慣れていない人々が集うコミュニティに敢えて属してみるというという手段か手っ取り早いというわけである。




おわり。

好きなことをひたすらに続けたほうが、人生は楽しくなる。

【目次】

日頃から思っていることがある。

それは、人生を少しでも面白くしたいのならば工夫は必須であるということ。

周囲の人間と同じ娯楽を楽しみ余暇を消費していたのであれば、普通の人生しか送ることができない。

かつて自分だけが異端であるかのように思い込むことを「厨二病」と揶揄されていた。


厨二病で結構。


在り来たりな人生を歩むよりも、少し風変わり生涯を過ごすほうが楽しいに決まっている。

周囲の意見や目を気にしてばかりいては退屈な量産型人間となってしまう。

熱烈な趣味を持つ

まず手始めに大切なことは、「熱烈な趣味を持つ」ということ。
最近では、何が趣味かと問われても胸を張って言える物がなにも無い人が増えている。

なぜなのか?

元々から好きなものが何もなかったわけではないのだが、大人になっていく過程のなかで自分がかつて愛していたモノのことを忘れてしまっただけである。

「世の中で普通とされる趣味はこういったものです」という凡例に惑わされた結果ともいえる。

いま一度、自分が何が好きであったかを思い出してもらいたい。
そして、それにありったけの情熱を持って欲しい。



好きなことをとにかく発信し続ける


熱烈な趣味を持つとは、ちょっとやそっとのことではダメである。
ひと月に数回それを楽しむというレベルに押し止まるのではなく、出来れば「毎日いつでもそれの事に関して考え続けている」というところまできて欲しい。
そこまでいくと、「アレに関してはアイツに聞こう」と周囲に言われるくらいになってくる。
また、その人のキャラクターとしてもそれが強く印象付けられる。
「アイツはどういう人か?」と紹介される際に、「何々が凄い好きな奴」と言われるくらいになればたいしたものだ。

そのためにも発信をし続ける必要がある。

発信にはTwitterやブログが最適

自分の好きなことを伝え続けるには、インターネットの場が最適である。
現実社会のなかで日々、自分の好きなことだけを言い続けていると正直なところ、鬱陶しいなと思われる可能性は高い。
なぜならば、相手はその話に興味がないという場合があるからだ。
よって淡々と自分の好きなことを沢山伝えられる場としてはネットが一番使いやすい。
自己発信を続けることで、そこから新たな繋がりが生まれてきたりもする。
すぐには知り合いが増えなくても、続けていくうちに仲間は増えてくる。


したくないことに時間を割いている暇は無い

我慢は美徳とされている。

「やりたくないことでも耐えて、努力を続けることが人生だ」
「お金を稼ぐことは大変だ」

そのような思い込みを、これまでに沢山の大人に与えられてきたことだろう。

だが、興味のないことに貴重な残りの人生を消費している場合ではない。

我慢は美徳でも何でもない。
単なる無駄と思ってもらって良い。

自分の好きなことをどんどん極めていくことが大切だ。
努力を努力と思わない領域で勝負していこう。
勝負といっても努力ではない。
深く追求していくだけのことである。

気が付けば、教養溢れる魅力的な人間に成長していることだろう。


早く自分の人生を生きよう。

1人で映画を観るのが苦手だ。

【目次】

1人じゃどうしても映画を観る気になれない。

映画は自分にとっては、あくまでコミュニケーションツールであり、誰かと一緒でなければどうしても観る気になれない。


映画は時間が掛かる

映画一本まるまる観るとなると、どうしても2時間近く掛かってしまう。

本のように途中で一旦観るのを止めるということもしにくい。
一本の映画を細切れに観る人もいるのかもしれないが、自分としては観始めたのならば最後まで一気にいかなければならない気がしている。

受動的というところが苦手である

映画は受動的である。自分から観る速度を変えることもできなければ、一旦止めて自分の想像の世界に想いを馳せることも難しい。自宅でDVDを観る場合であれば、一時停止したり出来るがそこまでしようとは思わない。
あまり気分が乗らなくなってきても、強制的に最後まで運んでくれるのが映画なのだ。

議論を交わしたい派

自分は映画を観たあとは割と、あのシーンはどういう意味があったのかとか、オチがちょっと。。とか、何か言いたくなる。
なので1人で観るより、複数人で観るほうが好きだ。


攻殼機動隊の草薙素子のように

「本当に観たい映画は、一人で見に行くことにしているの」

なんてカッコのいいことを言える日は来そうにない。

生まれては消えていく、多量のコンテンツたち。

【目次】

3日前のネタがもう“古い”時代 - orangestarの雑記

どんどんと、コンテンツとか話題の消費速度って上がって行ってるし、(もし、適宜流行の話題について行こうとするならば、だけれども)情報を提供する側も、それに合わせた速度が要求される。何か話題になるような出来事があったら、その6時間後には、もうそれに対する文章なり記事なりを投下しないと、見てもらえない。3日あいたら、「なぜ今更その話を…」って思われるし1週間もたてば「そういえばそんな話題もあったな…」みたいな感じ。

みんなが、コンテンツや話題をものすごい速度で後ろに放り投げるようになるのも時代の流れかもしれない。

ネット社会の流転の速度

インターネット上の情報は、なんでもない一般市民が随時コンテンツを提供できる空間であるから、そのクオリティを問われることなく、多量に生産していくことが可能だ。
それが故に、流行るスピードも廃れるスピードも、とにかく速い。
幾らでも語れるテーマが存在するので、1つの物に固執する必要性がないからだ。
必要性がないというよりも、より新しい面白テーマを発掘して、それに関しての発信者となりたいがために次々と新しい物に飛びついていくのだ。

誰もが注目を集めたいインターネット世界

現実社会において注目を集めたいとなれば、ある程度の地位とか名誉とか、資産が要されてくる。
もし何もなければそれこそ罪を犯して捕まるでもしなければならない。
だが、ネット上では地位も学歴も資格も何も要らない。
なんの努力もなく有名になることだって可能な世界だ。
その偶然を狙って、常に新しいコンテンツを発見し続け、少しでも時間が経過したモノに対しては「今更そんなものを。。」と蹴落としていくスタイルでいく。


知らなくてもいい情報の集まり

拾い集めても仕方のない、完全なる無駄の集合体である情報によってネットの世界の半分は形成されている。
無駄が人生を豊かにするとは言うが、豊かにするかどうかも分からないレベルの無駄ほうが多い。
だからこそ3日も経てば記憶から完全に抜け落ちてしまうし、忘れたところで人生に何の影響もない。


おわり。