まずは行動に移してみてから、考えたらいいんじゃないかな問題。
変なプライドとか捨ててしまって、なんでも試してみるのがいいんじゃないかなと思う。
最初からこんなのダメだろとか、うまくいく訳ないんじゃないかなとか、そういう何かしらの理由を付けて挑戦しないってのは実にもったいないなという気しかしない。
やらずに現状維持を継続していくのでは、人生に発展性がないし、なんか退屈していくと思う。
成功するかどうかばかり、お金になるかどうかばかり、損得だけを勘定しながら取捨選択していくと、捨てばかりが目立つようになっていく。
リスクを一切伴うことなく生きるのが良いって考えもありだとは思うけど、少しでも人生を面白くしてみたいならばやっていくしかないじゃないかな。
思い付いたこと、気になることは全てやっていけばいい。
うだうだと議論をしてみたところで、実際に行動に移さないうちは何も結論は出ない。
分からないことを話し合ったところで、分からないままで終わる。
まあ、その生き方を誰かに強要しても仕方がないし、その気持ちを維持できるかも適正があると思うので、万人に当てはまる訳ではない。
終わり。
4000万をホストに使ったカモネギさんの話がすごい。
この記事が面白かった。
タイトル通り、4,000万もホストに貢いだ女性の話。
沢山貢いでくれる女性のことをエースと呼ぶ
「エース」という言葉があります。スポーツの世界や職場などで使われているエースと同じく”一番”という意味ですが、ホストの世界では「各ホストに一番お金を使うお客様」のことをそう呼びます。
自分(ホスト)の人気や売り上げは、エースの存在によって大きく左右されるので、ホストになくてはならない絶対的な存在。
しかし、エースになるには、大体毎月数百万円のお金を使うことが必要。エースにとっても、そこまでお金を費やすことのできるホストの存在もまた、ある意味で絶対的だと言えます。
あだ名はカモ
この貢いでいる女性のあだ名はカモである。もちろんカモネギのカモ。
久兎はホストの源氏名。カモが貢いでいる女性。
久兎 彼女は、カモちゃんで大丈夫です。カモネギのカモ。
──カモネギって、カモがネギを背負ってくる都合のいいアレってことですよね。そんな呼び方で大丈夫ですか。
カモちゃん はい、大丈夫です。一人称で、カモって言うときもあるので(笑)
なんか既にすごい。
では早速ですが、カモちゃんさんの年齢と職業を教えていただけますか。
カモちゃん 20代です。久兎にハマるまでは、普通に会社員をやっていましたが、今は……風俗嬢、をやっています。
貢ぐために、風俗嬢になった。
1年半で4000万
久兎 カモちゃんはエースになって1年半くらいですが、今まで4000万円くらいは使ってくれましたね。
──4000万!? け、桁が違いますね……。
カモちゃん そのくらいだね。もったいないとは全く思わないですね。彼には、それだけの価値があると思ってるから。
愛ということもありますが、ジャニーズとかアイドルは、いくらお金かけても話すこともできないけど、ホストクラブだったら、何百万ってお金使えば、一緒に話したり遊んだりしてくれるので、もったいないと思ったことはないです。
もったいないという感情は一切ないとのこと。
好きならお金を遣え
カモ ホストクラブは、「好き」がお金に変わる場所。
どんだけ好きって言ってても、お金使ってないなら、口だけじゃんってなる。毎月お金を使い続けるのが、愛情の証明だと思っているから、わたしはエースで居続けてるんです。
一番お金を使っているエースだからこそ、わたしが彼のことを一番好きなんだって自信を持って言える。
わたしは、ホス狂が書くネットの掲示板でよく叩かれているんですが、文句があるなら努力して金を稼いで、わたしより金を使えと思っています。
いかにお金を遣えるかが愛の深さになるというホストクラブ。アイドルのCDを何百枚も買って応援したりする様なことと同様なのだろう。
多くのお金を払うことで愛を買える世界があるってのは面白いなと思った。
本物の愛を買えている気はしないけど、たまたま初めて訪れたホストクラブで一目惚れをし、4,000万も注ぎ込めるほどに気持ちが継続しているのは驚く。
ホストの方はカモさんのことを本音ではどう思っているのかは、最後までよく分からない。
インタビューの最後で、このまま行けば成り行きで結婚もあるかもと久兎さんは答えてはいるが、あくまでこの話を美談に持っていくためにそう回答している気はする。
ちなみに1度もカモさんとは寝たこともないそうで、ほかの女の子とは結構寝たりして遊んでるっぽい。営業含めて。
純愛とも呼べそうだけどよく分からない。
自分が見てきた世界とはかけ離れ過ぎで理解に至らないけど、なんだか幸せそうだし、これはこれでいいのかもしれない。
何度か歌舞伎町とかのオフ会とかに行ったことあるけど、確かにこういう雰囲気に近いものを感じた。
ぜひ、この記事は読んでもらいたい。
【書評】小説『俺俺』を読みました。自分を失っていく物語。
先日、購入した星野智幸の『俺俺 (新潮文庫)』を読み終えた。
ファーストフード店で、たまたま拾った携帯電話で主人公が何となく俺俺詐欺をしてしまったところから物語は始まる。
俺俺詐欺で騙された母親がなぜか、主人公のことを本物の息子と認識し、そのまま一緒に生活をスタートする。本物の親には息子と認識されなくなり、主人公は別の俺になった。
そこまでは世にも奇妙な物語的な不思議な世界感が保たれているのだけれども、その後はどんどんメタ的な世界になっていく。
様々な周囲の人間が俺になっていき、男女問わず全ての人間が俺になる。
他人と自分との境界線がどんどん崩壊していき、他者であるはずなのに自分と認識できるようになる。
めちゃくちゃな世界のようで、深層心理を上手く表現した哲学的なストーリーだなと感じた。
意識せずに生活しているうちに、自分は何処にでもいる誰かと、何ら変わりの無い人間であることにはたと気付く。
均一化された大量生産のパッケージ商品的な自分。
そこから強い自我を覚え、「そんなはずは無い。周囲の人間とは自分は違うのだ」という反発的な要素を持つ。
それと同時に、自分と感覚の違う、理解し合えない存在は抹消したいとの正反対の欲望も産まれる。
最終的には、俺が俺をどんどん殺戮していくという、終末世界の終焉に向かっていく広大なストーリーには度肝を抜かれた。
んー、すごい作品だ。
解説に書かれていた、秋葉原無差別殺傷事件の犯人、加藤智大の証言台でのセリフが印象的だった。
「例えば、自分の家に帰ると、自分とそっくりな人がいて自分として生活している。家族もそれに気付かない。そこに私が帰宅して、家族からはニセモノと扱われてしまうような状態です」
彼はインターネットの掲示板で、自分になりすました他人に、居場所を奪われた話を語った。
自己を乗っ取られ、存在を消された。
それが事件を引き起こすキッカケになった大きな要因だったと話す。
「自分とそれ以外の境界があいまいになりました」
誰からの承認も得られなくなり、その喪失感が激しい怒りへと変わった。
加藤智大の発言を知り、無差別殺傷とは何の意味もないようで、実はその無差別であることに意味があったのだなと感じた。
他者と自分の区別がなくなり、全てがあいまいになった世界では、他人は全て自分である。
全ての人間が自分に見えたのだろう。
本物である自分を見失わないように、"余分な自分"を排除しようと行動したことになる。
この本書の主人公たちと同じでないだろうか。
ちなみに秋葉原無差別殺傷事件は、この本が出版されてから、1か月後のことである。
加藤智大は読んでいたのだろうか…。
- 作者: 星野智幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/03/28
- メディア: 文庫
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優秀な歳下から学びたい。
ただ単に年を取っていくことについて考えてしまう。
歳を重ねていく毎に、優秀な歳下を認められなくなっていくのだろうか。
長年生きてきた自分の方が劣っている部分があるだなんて認めたくないし、そもそも劣っている所があるだなんて思いもしないのだろう。
長年生きてきた自分の方が偉いに決まっているだとか、そういう感じになっていくのは良くない。
いつまでも才能や能力のある歳下には敬意を払っていきたいし、あわよくば教えを請いたい。
自分はあまりにも無知であり、何も特出すべきスキルを持ち合わせていない。
例えば、突如として会社を明日にでも辞めてしまえば露頭に迷うことは必須だ。
まあ、とりあえずガンガン生活レベルを下げて生活していけばどうにかなるだろうか。
色んな優秀なひとたちに教えを請いながら生きていきたい。
なんか恥だとかプライドとか本当に無いので、頭を下げながら生活していきたい。
数多くの情報に触れることは大切。
常時、何かしらの情報を受け取っていようとインターネットを見続けたり、本を読んだりと文章を読み続けることをする日々が最近はよくある。
いつもネットを見てしまう理由は、暇だからというよりも、まだ自分の知らない面白い話、世界が何処かにあるんじゃないかという探究心に基づいていることが理解出来てきた。
情報の取捨選択や、質について考えることが以前は多かったのだが、今ではとにかく量をこなしていけばいいのではとの結論にたどり着いた。
良質なものだけを探すには、キュレーターに頼ることがいいのかもしれないが、それでは自分で新しい価値観を見つけ出していく力が養われない。
あらゆる物事を観察し、そこから何かしらの感じるものがあれば、それを文章にしてブログに書いたりTwitterで呟いたりする。その繰り返しに尽きる。
ここ1年ほどで、なんとなくではあるが、自分なりの情報のインプット方法みたいなものが感覚的に掴めるようになってきた。
それを言葉で表現するのは難しいが、とりあえず日々の訓練が必要だなと感じている。
これからもあらゆる情報に触れて、自分なりの考えを示せていけばいいなと思っている。
感情が揺れ動く時に、ブログを書きたくなる。
今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」
面白い本を読んだ後とか、誰かしらが発した何気ない一言が妙に胸に刺さった時とか、自分の感情が揺さぶられる様な体験と出会った時にブログを書きたくなる。
また、激しく絶望した時などマイナスの心情に支配された際にも言葉が出てくる。
何か特別な体験をし続けなければブログを書けないということはなく、平凡な毎日を送っているだけでも、書けることは出てくる。
無理矢理に、何も感じない時にでも書こうと思えば書けるが、うまく言葉が出てこなかったりはある。
やはり、衝動的にブログを書きたくなった瞬間を大切にするのがいいのかもしれない。そんな時は、最後まで詰まることなく、すらすらと言いたいことが出てくる。
途中で、ブログ更新を止めてしまった人々、もはや伝えたいことが無くなってしまったのだろうか。
もし自分は、誰にも読まれることがなくなれば、更新をやめてしまうかもしれないが、だれか1人でも読んでくれて、少しでもレスポンスがある限りは続けていけそうだ。
文章を書くことは、衝動を大事にすることが大切だ。
書きたいと思えたその気持ちが冷め切ってしまわないうちに、頭の中にある言葉を出し切っていくべきだと感じる。
サウナは慣れると、最高の遊びになる。
今日は久々にサウナに行った。
色々忙しかったりでずっと銭湯に行けていなかった。
1ヶ月以上振りに存分にサウナを満喫出来てとても良かった。
今日行ったところは初めて訪れるスーパー銭湯だった。そこで、ドライサウナに入ったのだけど、フィンランド式サウナよりも身体への負担が少なくて長時間入っていられた。湿度が低いってだけで、こうも変わるのかと感じた。
フィンランド式は湿度が70%くらいなのに対して、ドライサウナでは10%ほどしかない。
入っていると、髪の毛とか普通に乾いてしまう。
室温はドライサウナのほうが100度前後と、高めに設定されている。だけど、あまり熱さを感じなくて、ずっと入っていられそうだった。
サウナと水風呂のローテーションを1時間くらい、ぐるぐると回していた。
一緒に行った人は、水風呂が初で結構発狂していたけど、徐々に入り方のコツに慣れていって最後のほうは大丈夫そうだった。
とにかく水風呂では、一度入ってしまった後はひたすらにじっとして姿勢をキープしておくことが大切。
全身にオーラみたいなモノがまとってくる。それに守られている間はあったかい。だけど、少し波が起きて、オーラが崩れてしまうと一気に冷たくなる。
水風呂は何度も挑戦していると、だんだんと慣れてくる。慣れてくるといってもメンタル面だけ。身体的には完全には攻略出来ない。入っていく瞬間は結構耐えなきゃいけない。そんな思いしてまで水風呂に入る意味があるのかと言われそうだけど、サウナと水風呂のワンセットの心地よさを一度覚えてしまうと、入らずにはいられない。
サウナはとにかく心身共に安定させてくれる作用がある。
すごい気持ちが落ち着いたし、身体の調子も整った。
これからもなるべくは定期的にサウナに入りに行きたいな。
出来れば、ワンコインくらいで入れてしまうサウナが近場にあればいいんだけどな。