思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

お金を遣わないと、あまり働かなくていいという事実。


お金はなるべく遣いたくない。

物欲が無いからだとか、所有することのストレスを感じやすいからだとか、様々な理由はあるにはある。

だがそれよりも、お金を遣うことで働かねばならない時間が急増していくことが最大の要因だ。

支出が増えれば増えるほどに、自由な時間は失われていく。
自分の生き時間を売り払い、それに対しての賃金を得る。
とてもじゃないが割に合わない。

よほど何かしら抜きん出た才能や能力を持ち合わせているか、特別な資格を持っているかといった場合でない限りは、労働量・内容に見合ったものを得ることはできない。

または、命の危険性が高い仕事も高い賃金は得られる場合が多い。だが、そこまでしてお金を得るのはどうなのだろうとは思う。


気持ちに余裕を持たせ、何もせずボーッと過ごしてみたり、自分の興味のあることや楽しみを見つけていける人生にするためには、消費を減らすしかない。

真のお金持ちとは、お金の遣い方を正しく理解している人だと思う。

幾ら多く稼ごうとも、遣う必要もない場面で散財を繰り返している様ではいつまでもお金は貯まらないし、精神的にも満足は得られない。

お金を遣わない生き方が全面的に正しいとは思わない。消費人間がいるお陰で経済が回っているのは確かなので、遣いたい人間に消費活動は任せておけばよい。

適材適所でいこう。

お金がないなら、ブログでも書いたらいいじゃない。

銀行口座がスッカラカンになった。


お金が無いのでブログでも書くしかないかなという心境になった。


ブログで稼ぎまくるぞ〜!の意味で、書いていくというよりも、ブログを書く作業にはお金が掛らないという意味で。
お金が無い人はブログでも書いていれば、いいんじゃないかな。


ブログはお金にならないとか、その時間を遣ってアルバイトでもした方がよっぽど有意義な時間の遣い方をしているとか言う人がいるけれども、金銭のプライスマイナスのみで考えるのはもったいない。


なんか毎日の生活のなかで、嫌なこととか気になったこととかを、文章にしていくことで頭の中が整理されたりする。
あとは、良い文章を作るためには多くの本を読まないと書けないとか気付く。そうなると自然と読書習慣が身についたりする。
ネットでダラダラと情報を眺めている時も、こういう文章表現法があるのかと学べたり、この話題についてちょっと言いたいことがあるなーとか、そんな気持ちを表現する場所として便利。

そんな感じに良いことはあるので、貧乏な人はブログでも書いて無料で楽しみましょう。

普通の人生。

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与えられた課題をクリアしていくほどには、生真面目さは無かった。
あくまで、自分が楽を出来る、簡単に出来るレベルのことだけをしてしまう。
それでは何時まで経っても、次のステップへと進めないのではないだろうか。

相手のニーズに対して、答えられる力を身に付けない限りは、誰からも仕事の依頼というものはこない。
自分がしたいことだけをやり続けるのでは、必要とされる可能性は低い。

そのことを考え続けならが、随分と時が経過した。

じっくりと時間を掛けた成長が求められる瞬間というのは度々ある。
それらを全て避けてしまい、惰性による堕落した時間だけを過ごしてしまうのでは何も大きな成果を上げることは出来ないのではないだろうか。

そのことを理解しているのに、どうしても、楽を選択してしまう。
それが、凡人であることに自己を留めている最大の要因だ。

例えば、私は文章を作ることは好きであるが、それがコンペなどの公募に向けた物を書き上げるだけのチカラは持ち合わせていない。というよりも、それほどまでの根性と、知性を兼ね備えておらない。

それを出来るか出来ないかが、プロへと進めるかどうかの分かれ道なのだろう。
あくまでも、趣味の範囲に留めて、好きなことだけを書くのが好きである。
何か、時間を掛けて能力を磨いていくということに対しての忍耐力が不足している。
ただyoutubeで動画を観ていたり、どうでも良い様なネット上に転がる情報を収集するだけで人生を消費していく。

至って普通の人間であり、至って普通の人生しか進めない。

特別だと考えてみたりすることも度々あったが、結局は行動を起こせない。
行動を起こせる人間だけが、先へ進める。
誰に何を言われようとも、どんな風に蹴落とされ様とも。

まずは行動に移してみてから、考えたらいいんじゃないかな問題。



変なプライドとか捨ててしまって、なんでも試してみるのがいいんじゃないかなと思う。

最初からこんなのダメだろとか、うまくいく訳ないんじゃないかなとか、そういう何かしらの理由を付けて挑戦しないってのは実にもったいないなという気しかしない。

やらずに現状維持を継続していくのでは、人生に発展性がないし、なんか退屈していくと思う。

成功するかどうかばかり、お金になるかどうかばかり、損得だけを勘定しながら取捨選択していくと、捨てばかりが目立つようになっていく。

リスクを一切伴うことなく生きるのが良いって考えもありだとは思うけど、少しでも人生を面白くしてみたいならばやっていくしかないじゃないかな。

思い付いたこと、気になることは全てやっていけばいい。

うだうだと議論をしてみたところで、実際に行動に移さないうちは何も結論は出ない。
分からないことを話し合ったところで、分からないままで終わる。
まあ、その生き方を誰かに強要しても仕方がないし、その気持ちを維持できるかも適正があると思うので、万人に当てはまる訳ではない。


終わり。

4000万をホストに使ったカモネギさんの話がすごい。



この記事が面白かった。

タイトル通り、4,000万もホストに貢いだ女性の話。


沢山貢いでくれる女性のことをエースと呼ぶ

「エース」という言葉があります。スポーツの世界や職場などで使われているエースと同じく”一番”という意味ですが、ホストの世界では「各ホストに一番お金を使うお客様」のことをそう呼びます。

自分(ホスト)の人気や売り上げは、エースの存在によって大きく左右されるので、ホストになくてはならない絶対的な存在。

しかし、エースになるには、大体毎月数百万円のお金を使うことが必要。エースにとっても、そこまでお金を費やすことのできるホストの存在もまた、ある意味で絶対的だと言えます。

あだ名はカモ

この貢いでいる女性のあだ名はカモである。もちろんカモネギのカモ。


久兎はホストの源氏名。カモが貢いでいる女性。

久兎 彼女は、カモちゃんで大丈夫です。カモネギのカモ。

──カモネギって、カモがネギを背負ってくる都合のいいアレってことですよね。そんな呼び方で大丈夫ですか。

カモちゃん はい、大丈夫です。一人称で、カモって言うときもあるので(笑)


なんか既にすごい。

では早速ですが、カモちゃんさんの年齢と職業を教えていただけますか。

カモちゃん 20代です。久兎にハマるまでは、普通に会社員をやっていましたが、今は……風俗嬢、をやっています。

貢ぐために、風俗嬢になった。



1年半で4000万

久兎 カモちゃんはエースになって1年半くらいですが、今まで4000万円くらいは使ってくれましたね。

──4000万!? け、桁が違いますね……。

カモちゃん そのくらいだね。もったいないとは全く思わないですね。彼には、それだけの価値があると思ってるから。

愛ということもありますが、ジャニーズとかアイドルは、いくらお金かけても話すこともできないけど、ホストクラブだったら、何百万ってお金使えば、一緒に話したり遊んだりしてくれるので、もったいないと思ったことはないです。

もったいないという感情は一切ないとのこと。


好きならお金を遣え

カモ ホストクラブは、「好き」がお金に変わる場所。
どんだけ好きって言ってても、お金使ってないなら、口だけじゃんってなる。

毎月お金を使い続けるのが、愛情の証明だと思っているから、わたしはエースで居続けてるんです。
一番お金を使っているエースだからこそ、わたしが彼のことを一番好きなんだって自信を持って言える。
わたしは、ホス狂が書くネットの掲示板でよく叩かれているんですが、文句があるなら努力して金を稼いで、わたしより金を使えと思っています。


いかにお金を遣えるかが愛の深さになるというホストクラブ。アイドルのCDを何百枚も買って応援したりする様なことと同様なのだろう。



多くのお金を払うことで愛を買える世界があるってのは面白いなと思った。

本物の愛を買えている気はしないけど、たまたま初めて訪れたホストクラブで一目惚れをし、4,000万も注ぎ込めるほどに気持ちが継続しているのは驚く。

ホストの方はカモさんのことを本音ではどう思っているのかは、最後までよく分からない。
インタビューの最後で、このまま行けば成り行きで結婚もあるかもと久兎さんは答えてはいるが、あくまでこの話を美談に持っていくためにそう回答している気はする。
ちなみに1度もカモさんとは寝たこともないそうで、ほかの女の子とは結構寝たりして遊んでるっぽい。営業含めて。

純愛とも呼べそうだけどよく分からない。
自分が見てきた世界とはかけ離れ過ぎで理解に至らないけど、なんだか幸せそうだし、これはこれでいいのかもしれない。

何度か歌舞伎町とかのオフ会とかに行ったことあるけど、確かにこういう雰囲気に近いものを感じた。

ぜひ、この記事は読んでもらいたい。

【書評】小説『俺俺』を読みました。自分を失っていく物語。

先日、購入した星野智幸の『俺俺 (新潮文庫)』を読み終えた。

ファーストフード店で、たまたま拾った携帯電話で主人公が何となく俺俺詐欺をしてしまったところから物語は始まる。
俺俺詐欺で騙された母親がなぜか、主人公のことを本物の息子と認識し、そのまま一緒に生活をスタートする。本物の親には息子と認識されなくなり、主人公は別の俺になった。


そこまでは世にも奇妙な物語的な不思議な世界感が保たれているのだけれども、その後はどんどんメタ的な世界になっていく。

様々な周囲の人間が俺になっていき、男女問わず全ての人間が俺になる。
他人と自分との境界線がどんどん崩壊していき、他者であるはずなのに自分と認識できるようになる。

めちゃくちゃな世界のようで、深層心理を上手く表現した哲学的なストーリーだなと感じた。

意識せずに生活しているうちに、自分は何処にでもいる誰かと、何ら変わりの無い人間であることにはたと気付く。
均一化された大量生産のパッケージ商品的な自分。
そこから強い自我を覚え、「そんなはずは無い。周囲の人間とは自分は違うのだ」という反発的な要素を持つ。
それと同時に、自分と感覚の違う、理解し合えない存在は抹消したいとの正反対の欲望も産まれる。

最終的には、俺が俺をどんどん殺戮していくという、終末世界の終焉に向かっていく広大なストーリーには度肝を抜かれた。

んー、すごい作品だ。



解説に書かれていた、秋葉原無差別殺傷事件の犯人、加藤智大の証言台でのセリフが印象的だった。

「例えば、自分の家に帰ると、自分とそっくりな人がいて自分として生活している。家族もそれに気付かない。そこに私が帰宅して、家族からはニセモノと扱われてしまうような状態です」

彼はインターネットの掲示板で、自分になりすました他人に、居場所を奪われた話を語った。
自己を乗っ取られ、存在を消された。
それが事件を引き起こすキッカケになった大きな要因だったと話す。

「自分とそれ以外の境界があいまいになりました」

誰からの承認も得られなくなり、その喪失感が激しい怒りへと変わった。
加藤智大の発言を知り、無差別殺傷とは何の意味もないようで、実はその無差別であることに意味があったのだなと感じた。

他者と自分の区別がなくなり、全てがあいまいになった世界では、他人は全て自分である。
全ての人間が自分に見えたのだろう。
本物である自分を見失わないように、"余分な自分"を排除しようと行動したことになる。

この本書の主人公たちと同じでないだろうか。

ちなみに秋葉原無差別殺傷事件は、この本が出版されてから、1か月後のことである。
加藤智大は読んでいたのだろうか…。

俺俺 (新潮文庫)

俺俺 (新潮文庫)

優秀な歳下から学びたい。

ただ単に年を取っていくことについて考えてしまう。


歳を重ねていく毎に、優秀な歳下を認められなくなっていくのだろうか。

長年生きてきた自分の方が劣っている部分があるだなんて認めたくないし、そもそも劣っている所があるだなんて思いもしないのだろう。

長年生きてきた自分の方が偉いに決まっているだとか、そういう感じになっていくのは良くない。
いつまでも才能や能力のある歳下には敬意を払っていきたいし、あわよくば教えを請いたい。
自分はあまりにも無知であり、何も特出すべきスキルを持ち合わせていない。

例えば、突如として会社を明日にでも辞めてしまえば露頭に迷うことは必須だ。
まあ、とりあえずガンガン生活レベルを下げて生活していけばどうにかなるだろうか。

色んな優秀なひとたちに教えを請いながら生きていきたい。
なんか恥だとかプライドとか本当に無いので、頭を下げながら生活していきたい。