現実とネットを行ったり来たりして、生きることについて。
先日のことだ。
職場でわりと仲の良い歳の近い男がいて、話をしていた。
彼は、ネットゲームが好きでFPSのオンライン対戦とかをずっとしていても飽きない、引き篭もり素質のある人物なのだが、
自宅のパソコンが壊れてしまい、一時的にネットの世界と離れることになってしまったらしい。
その間は、自宅に帰ってもすることがないので、ダラダラと職場に居続けたりしていたそうだ。
確かに、いつもあまり見掛けることのない彼の姿を、その頃は頻繁にみていた。
そして、そのあいだは「仕事が楽しいかも」とか思うほどになっていたそうだ。
これは、健全な傾向であり、そのままネットなんかせずにどんどん職場の人間とコミュニケーションをして、シゴトタノシイになったほうがいいんじゃないか?みたいな感じがはある。
その調子のままいくのかと思っていたそうだが、先日、ようやくパソコンの修理を頼んだことで、元の生活に戻ったそうだ。
またしても、ネット世界に興じるようになり「仕事なんてどうでもいいなと思うように戻った」と言っていた。
このくだりだけ聞けば、ネット引きこもりのダメなヤツが、社会復帰しかけたのに、またしてもダメになってしまった、みたいな話になりそうであるが、自分はそう思わなかった。
むしろ自分は、その「仕事なんてどうでもいいな」くらいのスタンスを保つほうが大切ぐらいに考えている。
現実にネットの世界というレイヤーを足すことが大切
iPhoneアプリで雑な図を描いた。描いても描かなくてもいいレベルだけど、したかった。
職場の彼は、ネットの世界を一時的に失ってしまったことにより、居場所は現実のみになった。
現実それは、大半の社会人にとっては仕事、職場のことになるだろう。
2つあった世界(現実とネット)の片方が消失してしまえば、残ったほうに頼らざるを得ない。頼らざるを得ないというより、そこしか見えなくなるからだ。
よって、その今自分が手にしている世界を、良い所と思うことで、生きていかざるを得なくなる。
良い所と思えるならば、それでいいのだがら、人間の心というものは一寸先ではどう転ぶか分かったもんじゃない。
突如として最悪の場所になる可能性だってある。
そうなってしまった際に、他に居場所がなければ、もうどこにも行けなくなる。
詰んでしまうといえる。
複数の場所に精神的な分配をおこなう必要性
以前、複数の居場所を作っておくほうが生きやすいみたいな話はしたが、それと同じようなことだ。
職場、仕事だけが全てじゃないと考えて生きることで、変に仕事を神格化してしまったり、思い込みから抜け出せたりする。
歳を重ねて、後輩とかがどんどん増えてくると、自分は偉いんだと思い始めたりして、威張り始める人とかいる。
そういう人は、きっと外部との関係性がかなり希薄なんじゃないかと思う。
そうなってくると、新しいことを誰かに習ったりと、教わる立場にくることをひどく嫌がる。これでは、新たな学びを得られることはないだろう。
パソコン壊れてネットゲームができなくなった。できないから職場にずっと居たら楽しい気がしてきた。というだけの話なんだけど、色々と考えてしまった。
まあ今回伝えたかったことは、一箇所だけにこだわり過ぎるのでなく、あらゆるところを行ったり来たりしながら生きたほうがいいかなという話。
知り合いの例でいえば、ネットと現実となるけど。
実家暮らしのメリットとデメリットについて書いた。
親と一緒に暮らす、メリットとデメリットについて考えた。
メリットとして1番初めに挙げられるのは、お金が掛からないということがある。
家賃、水光熱費ゼロ円であるから。
食費もゼロ円だし。
少しくらい家にお金を入れている人でも、一人暮らしで掛かる費用と比べればずいぶんと安いもんだ。
料理も洗濯も、風呂の掃除も要らなくなったりする。
いってしまえば、「そこに存在するだけで良い」という極限の堕落の園である。
しかしながら、デメリットもある。
【目次】
親として暮らすデメリット
お金の管理が苦手になる
働いて得たお金が全て、「自分の自由なお金」になるので、考えずに遣い過ぎてしまう恐れがある。自分は学生時代のお金の遣いかたがめちゃくちゃだった。なんと無くその場のノリで散財ばかりしていた。誰かに勧められた物はホイホイ全部買っていた。当然の如く、貯金は無いに等しかった。
親子関係が続く
親元を離れれば、親子関係が終わるという訳ではないが、一緒に居続けると、対等な大人同士という立場を維持するのが困難になる。
早く風呂に入りなさいだの、早く食べなさいだの、起きなさいだのといった、子どもの頃の様な関係がどうしても続いてしまう。
また、親というのは、子どもが幾つになっても心配なもので、生活のアレコレに色々と口を出してくる。
親としては、少しでもいい人生を子どもに歩ませたいとの思いからの、発言ではある。
あまりにも言われると段々と面倒になり、従ったりしてしまう。
そうなると、もういい大人なのに、いつまでも自分は子どもであるような感覚に陥る。
思考の支配から抜け出しにくくなる
「親子関係が続く」と似た話でもあるのだが、そうやって親から言われたことを、ただやっていると、思考が支配されていく。
子どもが、善悪とか道徳を基準に考えるのでなく「親の機嫌を損なわない」ために行動することはよくある。
親の機嫌が良くなれば、それはいいことだし、悪くなれば、それは悪いこと。
親が子どもに万引きをさせてくる、みたいな事件とかを聞くと、子どもは親を喜ばせたくてやっていたのだろうなと思う。
万引きの例は犯罪になる話だけど、それほど子どもにとって、親は強い影響力を持っているということである。
自分がむかし持っていた価値観を思い返してみると、良い面も悪い面も含めて、親がよく口にしていたことと一致しているなと感じる。
大人になっていく過程で、様々な経験や出会いを繰り返すので、世の中には多様な価値観が存在するという事実を知っていくのではあるが、「親の言うことには従わねば」みたいに素直でいい子をやり続けた人は、親の操り人形になってしまいがちである。
思考の支配から抜け出せなくなってしまうのだ。
自分は自分だという、アイデンティティを打ち立てることは重要
ここまでの話だと「親に人生を好きに操作されるぞ」みたいな感じになっているが、自分の中に確固たるものを作り上げることが出来れば、親の意見に左右される確率は低くなる。
そういう考え方もあるよね、と受け流せるようになるだろう。
だけれども、これまで自分を育ててくれた恩義とかを考えてしまったりして、従わねばみたいな感情に戻る可能性はある。
親と暮らすのならば、同居人くらいの気持ちを持つことが良い
思考を支配されるという話をここまでしてきて、親と暮らすのはデメリットが強い感じになっている。
だが、生活費を抑えられたり、家事などの負担が軽減されるメリットを考えると、少ない収入で長時間労働をかせられている若い人たちにとっては、すごく助かる環境である。また、精神的に働くこともままならない人にとっては必須な生命線である。
では、実家で暮らす場合はどの様に、親と付き合っていけばいいのか?
僕個人の意見としては、同居人ぐらいに考えるのが、良いのではないかということ。
血縁関係のあるシェアハウスという風に捉えていいだろう。
親子。家族。といった単語に縛られてしまうと、常識やルールに苦しめられてしまう可能性が高いので、同じ空間にいる人と考えておこう。
そうすれば、少しは気持ちが楽になるのではないだろうか。
1カ月ほど前から、久々に親と暮らす生活を送ってきる。
自分は同居人という感じに思って暮らしている。ドライといえば、ドライなのだが、それくらいの距離感のほうが、何事もうまくいく。
役に立たない豆知識、雑学を持った人が好きだ。
自分が仲良くなる相手の傾向は常にバラバラであり、法則性がない。
趣味が似ているとかの共通点を持った人とは話が確かに盛り上がったりするが、それが必須の条件というわけでもない。
一体どういった所に惹かれて、もっと話したいとか感じたりするのだろうと思っていた。
【目次】
非日常的知識を持った相手と交流したくなる
何がきっかけであったかは忘れてしまったが、最近、改めて自分がこれまでに仲良くしてきた相手を1人1人思い出してみる作業を行なった。
その結果、1つの結論が導き出された。
役に立たない知識に強い関心を持つ相手に、自分は興味を持つことが分かった。
役立たないとは、ずいぶんな言い草ではあるのだが、それが事実なのだ。
- 別段、知らなくても生活に困らない。
- 日常のなかで使用するタイミングが皆無に等しい。
- 突然、相手に話題を振っても、「は?」と言われてしまうようなこと。
そんなことに情熱を持てるような人が好きなのである。
なぜ好きかといえば、自分の知らない世界の話を聞くのがとにかく楽しいからだ。
話の中身が自分の日常と、かけ離れれば、かけ離れるほどに面白い。
身の回りのことにしか興味のない人は、狭い世界に生きている
先日読んだ、記事のなかに気になる項目があったので丸々引用したいと思う。ちょっと長くなる。
世界に負けない科学教育がある場所、国立科学博物館へ行こう | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン
ビジネスマンでも企画力とか商品開発力とかがなかったり、新規事業を起こすといったことができない人たちに共通した傾向に、「自分の半径5mくらいのことしか興味がない」というのがあると思っているんです。
5mか、遠くても50mで、そこから先に行っちゃうと本当に興味がない。目の前にあるパソコンか、せいぜい社内の人だけ見てるとか、そういうオジサンっているでしょ。
この間もある対談で「スマホはもうそろそろダメになるんじゃないか」なんて話してる人がいた。いや、スマホってまだ出てきて10年ですよ。初代iPhoneから10年でここまで来たんだから次の10年後のスマホは、なくなるどころか、もっととんでもないものに変化している可能性の方が高い。その人のスマホ観はiPhone6が7になったけどあまり変化がなかった、みたいな、たかだか1年しか見てないわけですよ。10年前はガラケーしかなかったのを忘れてる。
少し内容を省いたりして読みやすくしたが、自分の半径5mくらいにしか興味を持てない人はとにかく視野が狭い。
短期的にしか物事を判別出来ないし、常識やルールに縛られきっている傾向にある。
いわゆる、頭が堅いということである。
そういう人たちは往々にして、融通が効かないうえに、少々メンドくさい。
簡単に言ってしまえば、あまり付き合いたいと思えない。
自分の世界を持った人が好き
ちょっと変わった人と仲良くなる傾向にあるとかを、度々言われたことがあったの思い出した。
変わった人というのは、聞きようによってはマイナスなイメージであるが、実際は「自分の世界をきちんと持てている人」という意味になるだろう。
こういうのは好奇心の問題なので、頭の良し悪しでは測れない。
受験などの学習における頭の良さは、決められたことを機械的に反復して暗記していく作業であり、ヒラメキや自分なりの解答は求められない。
だが、仕事で何の役にも立たないようなことを学習するには、自分なりの解答を持つ必要が出てくる。その世界は、正解が無く無数の道が広がっているからだ。
興味の向くままに新しいことを始めていこう
さて、半径5m以内の人間に留まらないためにはどうしたらよいのか?
その答えは、何でもいいから少しでも気になることは片っ端からやっていけということに尽きる。
自分は読書が幼い頃から好きだった。
一時期は遠ざかっていたのだが、数年前にとあるキッカケで熱が戻ってきた。
明けても暮れても本ばかり読んでいたら、いつの間にか読破数は2000冊を超えていた。読むのも仕事とは全く関係ない分野のモノばかりであり、小説でも無いので、他人に何を読んでいるかを説明するのが難しいことが多い。
だが読書がきっかけで、読書会に度々参加するようになったし、文章を書くのも好きになれた。
役に立つとか役に立たないとか、そんな損得感情ばかり気にするのでなく、どんどん挑戦していこう。
NAVERまとめと、ブログについて。
最近、久々にNAVERまとめを更新していた。
NAVERまとめは、自分の実体験や個人的な見解を必要としない。
淡々と情報を集めるだけ
あくまでも「まとめ」なので、ネット上で見つけてきた情報を再編集するような感じである。機械的な作業で済む。
ブログを書くときとは違った楽しさがそこにはある。
なので、NAVERの記事を作るのも、ブログを書くのも、両方好きである。
ブログは、リアルから作っている
ブログには、ネットから拾ってくる情報はあまり載せる気になれない。
ブログでは、自分が現実の世界の日常で見たことや感じたこと、思ったことを書くようにしている。
なので、ゼロから構築していく感じがあって面白い。部屋にこもってネットをやっているだけでは作れない。
ただその分、自分のバイアスが強く掛かっているので、世間一般から見て正しいと思える情報や考え方を提供できるかは別物である。
ネットの世界は現実から構築されていく
バイアスどうのこうのいっても、ネット上にあるモノは全て現実の世界から持ち込まれるものなので、どんな情報にも個人の偏り、フィルターが掛かっていることには違いない。
なので、ネットで何かを調べる際には、盲信してしまうのでなく、あくまでも1つの意見として捉えるようにしておいた方が無難だ。
1つの事象に対しても、あらゆる条件が偶然に重なって1つの見解を導いたに過ぎず、その時、その時で、結末が異なることを理解しておこう。
ひとり旅を初めてしたという話。
場所が変われば思考も変わるのかも、ということでひとり旅をしてみた。
ひとり旅は、人生で初。
予定を立てる必要もなく、何もしなくてもいい気楽さがある。
元々、全ての行為が誰かとのコミュニケーションツールに過ぎないので、食事も、観光も興味がない。
昼ご飯はコンビニのオニギリで済ませたし、夜は吉野家で済ませた。
特に食にこだわりが無いので、そんな味気ないものでも気にならない。
とにかく安ければいいや、という感じだ。
宿泊したのは、以前から気になっていたホステルのCITAN。
CITAN -Hostel, Cafe, Bar, Dining | 東京、東日本橋のホステル&バーダイニング
東日本橋にある七階建てのビルが丸ごと宿泊施設になっている。
宿代は、3,000円ほどでとてもリーズナブル。
ドミトリーで8人部屋とかだから、やすい。
宿のチェックインが16時だったので、それまでは適当に時間を潰していた。
ブックカフェに行ったり、ブックオフに行ったりしていた。やっていることはいつもと変わらない。
チェックイン後は、受付の人に何か近くにありますかと尋ねてみて、人形町の方へ歩くことにした。
桜がいい感じだった。
最初は世界湯という銭湯を目指して歩いていたのだけれども、途中で面倒になった。世界湯 : 中央区 東京銭湯マップ
微妙に小雨の中だし、宿にシャワーがあるので、別途料金を払って風呂に入らなくてもいいかなと、なかなかケチくさい思考に落ち着いた。
1時間ほど、ふらついて吉野家入って食べて、道端でたい焼きを買って食べた後に、宿に戻った。
バーが地下にあり18時からオープンとのことで、一応行ってみた。
僕はお酒が苦手だし、興味もないのだが、バーなので酒を頼む。
サワーを一杯注文し、カウンター席に着くと、店の人と話して、後は結局本を読んでいた。
読んでいたのは、SF映画ブレードランナーの原作、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))』。
SF作品を楽しめる人は、なんだか知的で良い、みたいな印象を以前から持っているので、たまに挑戦している。
だが、基本的にあまり作品の世界のなかに入り込めず、単に文字をなぞっているだけのことも多い。これも割とそんな感じかな。
少し知らない人と仲良くなれたらいいなと思っていたが、CITANは普通に知り合い同士で来る感じのところであり、あまりゲストハウス的な感覚は無かった。バーも近所の人たちがグループで来ていた。
やはりもう少しこじんまりとしていて、店の人と宿泊客との距離間が近い所に泊まることにしよう。
まとめとしては、ひとり旅は気楽だなということ。
せっかくだからといって、何かをしなければならないわけでもなく、何もしなくていい。
食事もひどく雑でいい。
その割には非日常的であり、普段の生活とか、仕事のことを少し忘れさせてくれた。
場所を変えれば面白いことを書けるのかな、なんて思っていたが、なんか満足感から逆に何も書く気になれないということも分かった。
またいつか、何処かへ行こうかな。
久々にただの日記を書いた。
現状維持が大好きな大人たち。
大人は時間が無いという嘘。
【目次】
変化を面倒だと思う人々
やれることは限られてくるし、学生時代みたいな自由が少ないので、新しいことに挑戦も出来ない。全ては老後の楽しみに取っておきましょう。
なんてのは、どうかと思う。
現状を維持するのが好きになり、変化を面倒としか思えなくなったに過ぎない。
未経験のことへの挑戦はいつだって可能だし、訪れたことのない場所への移動だって、学生時代よりもお金の問題により解決が付きやすい。
学習の放棄
また、長く生きた経験から、お金の遣い方も徐々に学習できてきているので、無駄なことへの消費活動は減ってくる。ダラダラと暇を潰すための支払いが1番自分の首を締める結果を招くことを理解することが、大切。
行動を起こせなる全ての原因は、頭を遣うことの放棄である。
子ども時代の学習は、学びの基盤作り
とにかく頭を遣うことが嫌になってきているのが、よくない。
学習活動は子どもの務めであり、大人になれば解放されるとの間違いがよくない。
子ども時代の学習は、学歴のためにあるだけでなく、「将来、自分の頭で生きていくための、基礎体力作り」であると、僕は考えている。
となれば、頭を遣うことなく生活することは、大人ではない。
ただ日々の仕事をこなして、単に休日はお金を消費して生きていけばいい、と思っている人々が大半な世の中において、学習の意味を改めて考えているような人はマイノリティである。
これは又とないチャンス。
学習の真の意味を理解すること
時間が無いという嘘。
大人になれば勉強しなくていいという嘘。
休日は遊んでいさえすればよいという嘘。
会社から言われた資格の勉強さえしていれば、それが学習だと思っているような間違い。
それらの人々を圧倒的なスピードで追い抜かして生きていこう。