思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

目上の人の話はとりあえず聞いてみることが、上手に生きるコツ。

最近、自分でも大人になったと思うことがある。

それは、素直に目上の人間の意見とか話を聞けるようになったこと。(表面上は…。)

以前は何でも反発してしまうというか、反抗的な態度を取りがちで、もっと良いやり方は幾らでもあるし、効率的じゃなくて本当にバカ、とかそれくらいのことを思っていたりした。

だけども、そんな風に抵抗してみたところで、自分の立ち位置を危うくするだけだし、損しかないなということを理解してきた。

決まったルールとかシキタリが無駄に感じたりしても、とりあえずそれに乗っかっておくことで変に目を付けられたりしないし、面倒ごとに巻き込まれなくなる。
とにかく組織で長く生きていくためには、余計なことはせず荒波を立てないということが本当に大事だなと理解してきた。

それは会社に染まってしまっているとか、飼い慣らされた結果なんじゃないの?みたいなことを思われてしまいそうだが、利用可能なものは何でも利用していこうの精神である。

変におべっかを使う必要もなく、ヨイショをしろというわけでなく、素直さを演じておけば、得することが色々とあるという話である。

まあ生きていると、色々と理不尽な目にもトコトン合うし、死ぬほど嫌いな人間とも付き合わなきゃいけない瞬間も多々ある。
完全に1人で仕事が出来る環境であれば、そんなことは無いのだろうけれども…。

別に素直なフリをすることで、自我が失われてしまうことはないので、演技派になっていくべきだ。
そもそも、ちょっと違うことを演じるだけで自分を見失うようであれば、その程度しか自分を持っていなかったんじゃないのかという厳しい見方もある。

若いうちは反発しがちだけども、意見を柔軟に取り込んでいくことをやっていってみよう。

最近、家ばかりにいる。


「用もないのに外出をしても仕方がないな」という気持ちを常に最優先事項として生活するようになった。

その結果、見事に外出をしなくなった。

休日はほぼ自宅にこもって過ごすスタイルが定着してきた。

食料はある程度の品をひと通り買っておけば、幾らでも食材の使い回しが効く。野菜でも肉でも何でも余れば冷凍しておけばよい。冷凍庫が大きい冷蔵庫を買っておいたのは正解だった。まあその冷蔵庫を選んだのは自分では無いのだが…。

本を読んだり、映画を観たり、ネットをしているだけで無限に時間が過ぎていく。
退屈なんて感情が訪れることが本当にあるのだろうか。誰にも合わなくても平気だし、なんか色々と考えたりしているだけですぐに日が暮れてしまう。

まあ本当はそれだけではいけないことは理解している。
だけども、外に出ることで寒さに震えたり、人混みを歩くことで病原菌を移されたり、車に跳ねられたり、自転車に轢かれかねない。

別にどうしてもという理由を挙げられ無いのならば、家の中にいるのがいいのではないか。
お金も遣わないで済むし。

あらゆることを考慮していくと、家にいるという選択をしてしまう。

30歳で亡くなられた有名人 まとめ。

この肉体との付き合いも30年になります。

30年間も生きていると、あらゆる世の中の摂理が分かっていたり、生きていくために必要な知識・情報を一通り学べているものであろうと考えていました。

しかし、そうではありませんでした。
意欲的に学びの姿勢を保ち続けねば、たいした人間には成れないものなのだなということを知りました。

そんないい加減な状態でも、大きな病や事故に合うこともなく生きてこれました。
これは実に有り難いことだなと感じております。

世の中には30歳で、亡くなってしまった人間も大勢いるはずです。
ちなみに国内の30歳男性の死亡率は0.65です。40歳になると1.09になります。

さて、導入の話が長くなってしまいました。
ここから先は、30歳で亡くなられた有名人をまとめます。



30歳で亡くなった人々

英国アイドル歌手 アンディ・ギブ


1988年3月10日(30歳没)


彼が30歳である1988年3月、新しいアルバムの制作作業に入った頃、胸の痛みを訴えてジョン・ラドクリフ病院に入院。
そして1988年3月10日、ウイルス感染による心筋炎でわずか30歳で逝去。

シンガー・ソングライター  ジム・クロウチ


   
1973年9月20日 (30歳没)

1973年夏の全米チャートでトップに輝いた直後、バンドメンバーやスタッフと共に巡業中の飛行機事故で他界。

プロレスラー ジャイアント落合

2003年8月8日(30歳没)

プロ野球中日ドラゴンズ元監督である落合博満の甥。

2003年7月28日本格的なプロレスデビューを目指して、出稽古をしていたWJプロレスの道場で、ロープワークの練習中(佐々木健介のシゴキにより)に倒れて意識不明の重体になり、昭和大学病院に緊急入院。開頭手術を受けるも、8月8日午後4時30分、急性硬膜下血腫により死去。

芸人 ワンツーギャンゴ 今井 辰紀


2011年5月20日(満30歳没)

2011年5月20日、急病(詳細不明)により急逝。享年30。ブログは死去の前日まで更新されており、その日は「アレルギー性の蕁麻疹が再発したので動物性蛋白質が摂れない」などの話を綴り、「なんかネガティブなブログですいません。これが俺のリアルだ !! 」の一文で締め括られていた。

タレント 羽生未来

2005年2月22日(30歳没)

2002年9月、脳腫瘍と診断を受けて入院。手術とリハビリによって一時退院。しかし2005年に肺癌と診断され再入院し、同年2月、東京都の病院で死去した。30歳没。

サッカー選手 今藤幸治



2003年4月17日(30歳没)

脳腫瘍への罹患が発覚、1998年シーズン途中でガンバ大阪を退団。4度の手術とリハビリを繰り返すも、2003年4月、30歳の若さで他界した。

大相撲力士 剣晃敏志


1998年3月10日(30歳没)

1998年3月、汎血球減少症による肺出血のため、大阪狭山市の病院で逝去。30歳没。

レーシング・ドライバー マルセル・エンゲルス


エンゲルスは6月17日(日)、母国ドイツの公道、アンラター通り(通称K17)でオートバイを運転中に事故に遭い亡くなったという。享年30歳。

総合格闘家 宮下トモヤ

2011年12月31日(30歳没)


2010年11月、縦隔に腫瘍(性腺外胚細胞腫瘍 非セミノーマ)が見つかり、治療のため入院。

腫瘍摘出の手術は成功したものの、2011年5月には急性巨核芽球性白血病も発覚し、同年12月31日午後6時10分に亡くなった。30歳没。

韓国サッカー選手 チョン・ジョングァン

2011年5月30日(30歳没)

プロサッカーの八百長に加わった容疑で検察から逮捕令状が発給されたチャレンジリーグ(K-3リーグ)ソウルユナイテッド所属のチョン・ジョングァン選手(30)が「勝負操作に加わったことを恥ずかしく思う」として自殺した。

30日午後1時40分ごろ、ソウル江南区新沙洞(カンナムグ・シンサドン)Pホテルのある客室で、チョン選手が首をつって死亡しているのをホテルの職員が発見し、警察に申告した。

漫画家 山崎あつし

2006年12月23日 (30歳没)

作品内容は性描写を含む、いわゆる18禁作品がほとんど

2006年12月2日、愛車でドライブ中に事故を起こし、意識不明の重体となり入院。回復しないまま23日に死去。享年30。

自分は生きている

突如として明日死んでいるかもしれないし、まだまだずっと生き続けるかもしれないです。それは誰にも分からないものです。
自分と同年でこの世を去ってしまった人々のことを知ると、何とも形容しがたい気持ちになります。



おわり。

東京には生きるエネルギーがある。

昨日、久方ぶりに池袋を訪れました。
都心のエネルギーみたいなものに触れて、なんとも言えない心持ちとなりました。

自分は神奈川に住んでいるのですが、やはり東京はちょっと違うなという印象を受けました。

多種多様な人間がいて各個人の主張がとにかく強い、そして、尖って生きている。そう感じました。

ここに住んでいたら、人間はどんな状態になっても生きているし、まだまだ大丈夫だと感じることが出来、やっていけそうだなという気持ちになれました。

自分が住んでいる地域ははっきりと言って普通の人々ばかりであります。平均化された生活習慣に、飼いならされている感じがあります。

特殊な生き方や、面白いことを追求し続けたいみたいなエネルギーを保持していくことが望みならば、やはり都心に住むのがいいのではと考えました。

今はインターネットの発達により、何処に住んでいても変わらないとよく言われます
。ですが、それは少し違うのではないかと感じます。

バーチャルの世界を一度通して見るのと、実際に自分がその場にいて五感を通じて触れていくのでは理解度がまるで異なります。

リアルでの体験だと、世の中にはこんなにも多種多様な人間がいて生活しているのかということを深く理解できます。
自分はダメだとか落ち込んでいる暇などがあれば、その雑多な人間模様のなかに入っていくことがいいのではと思います。

人間は環境に支配される生き物であり、その環境にどんどん順応していってしまいます。
それは、自分では気付かない速度での変化なので自意識を伴わないことのほうが多くあります。

自分の感覚を鋭利にさせ、常に思考を変化させながら生きていきたいと思うならば、変わった人間が多く集まる場所に身を置き続けることがいいのではと感じました。

無理しながら生きている感じが強くなってきた。


そろそろ色々と無理しながら全力で生きていくことが辛くなってきたなというのがある。

元々は逃げ体質で、少しでも嫌なことがあれば投げ出していたし、人付き合いとかも全くもって我慢とかが出来なかった。

愛想よくすることや、深く交流していくことが辛かったし、そもそも他人とコミュニケーションを取ることがめちゃくちゃハードル高いと思っていた。

今もそうは思っているが、自分の弱点は全て克服すべきだと考え、とにかく本を読むことで知恵や思考を凝らし、どうにか生きていく術みたいなものを身に付けいくことが出来た。

このパターンの時はどう対処したらよいか
とか、気持ちをどう切り替えていけばいいかとか、とにかくここは突っ切っていくべきだとかとか、プログラム的に生きることを選択した。


極度のあがり症かつコミュ症で、口べたで、常に無表情なころからしてみると随分と改善していったと思う。結構、努力したなという気持ちは少なからずある。

だが、どこか無理していた部分があったのだろう。

全く関わりたくもない人間に、めちゃくちゃ愛想よくしてみたり、なんか無理に元気なフリをし続けたりすることに疲れてきた。
全てがバカバカしいというか、なんだか自分の心と違うことを延々とやり続けているなー、という気持ちが強くなってきた。

昔みたいに全部から逃げ出したいし、何も考えずに何もせずに暮らしたい。

久々に、人生が本気でだるくなった。

本を2000冊読んでみたら分かった7つのこと。


2年ほど前に本を1000冊読んだら~という記事を書きました。
本を1000冊読んだら人生が変わった。本が教えてくれた7つのこと。 - 思考拡張日記。

あれから月日が流れ、気付けば読んだ本の数も2300冊ほどになりました。当時の倍以上ですね。


ぼくのページです。アビ太郎 - 読書メーター


あの頃に感じていたことと、今、感じていることは違っている部分があります。どのような変化がさらにあったのかについて考えていきます。

本を2000冊読んでみた結果、学んだこと


1.誰とでも話が出来るようになった

ぼくは、ジャンル問わず、何でも手当たり次第に読むようにしています。
SF小説、エッセイ、ノンフィクション、児童文学、自己啓発、医学、社会学、教育論、サイエンス系、アートなど多岐にわたり、とりあえず少しでも気になったものに関しては手に取るようにしています。
そういった、いわゆる乱読を行っていたお陰で誰とでもとりあえず会話を成立させることが出来るようになりました。
相手が1番関心を持っていることに対しての知識を持っていれば、それに越したことは無いと思います。ですが、人間は1つのことだけに興味を示すわけでなく、好きなこと、興味を持っていることは多数あります。そのうちのどれか1つだけでも話を広げることが出来ればそれで充分なのです。


2.異性に物怖じしなくなった

もう今更30歳にもなって女性とは全く話せないなんて人もほとんどいないかもしれないですが、自分は本を読む習慣が身につくまでは、正直、女性と話すことが出来ませんでした。
中高が男子校だったことで、女性と接する機会のない10代を過ごしたために、女の人は全く違う生物であるかのような印象を強く抱いていました。
そのため、何を話せばいいのか分からないという状態が続いていました。
ですが、人類学や生物学などの本を通じ、人間が古代からどのような進化を遂げてきたのか、どのように生き抜いてきたのかといったこと、人体はどんな機能を秘めているのかといったこと、そういったものを学んでいく過程で、はたと気付きました。
男や女といった性区分の以前に、同じ人類という種ではないか。大きな違いなんてものはないんだ。少々、脳や身体的構造が異なるだけのことではないか、との結論に至ったのです。
それからは、特に異性であることの意識を持つことがなくなり、普通に会話出来るようになりました。


3.どんなことでも学びがあると思うようになった

以前は、世の中には有益な時間と無益な時間の2種があると強く考えていました。
例えば、何もせずぼーっとしているだけの時間は無駄であり、少しでも暇があればセコセコと動き回るようにしていました。ですが、ぼーっと布団で横になっていたり、延々とスマホで単調なゲームをプレイしたり、TwitterやInstagramなどのSNSのタイムラインを眺めているような時間にも意味があるなと感じるようになりました。意味があるという表現はちょと違う気もするのですが、そのような時間のなかで、精神を整えていたり、思考がまとまっていたり、気持ちが切り替わっていたりといったタスクが稼働している実感を得られるようになりました。アプリがバックグラウンド処理されている感じに近いです。これも多数の本を読んでいった中で身についた感覚だと思います。



4.自分の心を理解できるようになった

さっき、バックグラウンド処理の話に関係します。
1人で黙々と本を読んでいますと、自分のなかの些細な変化に敏感になります。
今、このキーワードに反応したのは何故だろうか、この言葉をどこかで耳にした気がするのだがいつだろうか。なぜこの本を読んで、いたく感銘を受けているのだろうか。こういった自分と向き合う時間が多く確保されます。その結果、自分の心が揺れ動いた際、すぐにキャッチできるようになりました



5.自分の感想を持てるようになった


自分は、本を読んだ後にはなるべく、短い感想を残すようにしていました。
読書メーターという読書家御用達のSNSを利用していまして、そこに読んだ本を登録していっています。読んだ本を記録して、新しい本に出会おう - 読書メーター
どんなことでもいいので何か感じたことを書くようにしていましたところ、あらゆる事象に対して自分なりの感想を抱けるようになりました。これは反復練習に尽きます。
別段、レベルの高いことを書く必要もなく、面白かったレベルのことを書いていけばいいです。その内、少しづつ書けるようになります。使いこなせる語彙が増えていき、表現の幅が拡がっていく感覚があります。言葉は知っているだけでなく、使いこなせるようになって初めて、その言葉を本当に理解出来ているということなんだなと思うようになりました。


6.今に集中出来るようになった

さきほど、読んでいた『モノも気持ちも溜め込まない! 夫婦の断捨離』という本のなかにいい言葉が書いてありました。

もう終わってしまった過去や、どうなるか分からない未来にばかり気を取られると、集中力は下がり、思考はブレ、余計なエネルギーを使用し、消耗します。

これは、使わなくなった物をいつか使うかもと溜め込んでいると今を疎かにしてしまう、みたいな話でした。
これと同じ効能が、読書にはあるなと感じています。
本を読み続けていますと精神の棚卸しといいますか、余計な不安や正体不明の悩み、みたいなものが消えていきます。
過去は過去と割り切れますし、将来なんてどうなるか分からないのに心配するだけ時間の無駄だなと思うようになりました。
その結果、今を楽しく過ごすにはどうしたらいいのか、どうやれば幸福度があがっていくか、ということばかりを考えるようになりました。


7.生き方の多様性を学べた

世の中は、白か黒かではっきりと分けることは出来ません。
たいがいのことがグレーです。また、何でもきっちりと結論を無理にでも出せばいいわけでありません。
そのことを肌感覚で理解できるようになりました。
よって、1つの生き方、考え方を盲信してしまい他の視点から考えることが出来なくなるという視野の狭まった世界からは脱することが出来るようになりました。
争いは互いの正義をぶつけ合うことで発生します。自分の信じているモノを決して疑おうとせず、それを相手に突きつけるせいで起きてしまうのです。
もし、そんな考え方もあるよねと、固定概念にとらわれない自由な心を持つことが出来れば、事は大きくならないのです。
今の自分は、世の中には色んな人間がいて、合わない人間は絶対に合わないのだから無理をしてまで付き合うのはよそうと思っています。
生き方の多様性を学んでおくことは、非常に大切です。

おしまい

1,000冊読んだ頃と比べてみますと、自分の中にあるものが結構変わってきているなという感覚がもてました。
ただ、本読みの世界には上には上が沢山いるもので、5,000冊以上も平気で読み終えているような人たちが沢山います。しかも20代でその数に到達していたりで…
これからも、もっと様々な本と触れ合い、楽しい人生を送っていこうと思っています。

「書く人間」と「感じる人間」の2人がクリエイターのなかにはいる。というはなし。


先日、読みました『何歳まで生きますか?』。

この本のなかで、なるほどなと感じさせられた言葉がありました。

気になるものは色々とあったのですが、特にそう思ったのがライターの平民金子さんの言葉。


書く人間と感じる人間の2人がクリエイターのなかにいる。

というもの。

自分はこれまでその2種類を混同して捉えていました。


感じたものを感情のままに書けばいいという認識

自分の心が揺さぶられたその状態のままで書いていくのでなく、第三者的な視点のもとに文章を作っていくという手法があるということを理解していませんでした。

文章を作るのならば、これはもう常識なのでしょうが、分かっていませんでした。

確かに、感情に任せた状態で書いていくと伝わりにくいものが仕上がってしまったり、また、自分よがりなものが出来上がります。



小説も書く人間である必要性がある

ブログなどで文章を書く時のみならず、小説などの空想上の創作物を制作する際にも、この感覚は求められるのであろうと思います。

状況説明を行うにしても、あまりに自分視点により過ぎたものでは、読者に伝わりにくくなり、それは読み辛い悪文になってしまうと考えられます。



今後はなるべく、書く人間と感じる人間とを区別していこうと思います。