思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

日常のなかに小さな喜びを。

日常が消費されていく。

自分をどこに向かわせていけばいいのか分からない。

漠然と日々は過ぎていくし、色々とその瞬間に思うことがあったり考えたことがあったり、感じたことはある。

それをどう切り取って、どう伝えていくか。

それを少し考えているうちに色あせていって、まぁもういいんじゃないかなそれは、とか言って明日になっていく。

その繰り返しの中で、生きている。


誰かと交わした言葉、もう戻らない生活。
二度と会うことのない誰か。
記憶に残る景色、景観。

沢山、自分の中には蓄積されている。
それを改めて言葉にしてみようと思わなくて、そのままにしているだけ。

目の前のやるべきことに自分を消されていく感じがある。
限られた時間や体力のなかから、どこを目指して活動していくべきか、見極めていかねばならない。


仕事で自己実現をすることを最優先するという人生もありだろうし、趣味に生きるのもいいし、何もしなくて、ただ寝てばかりいるだけでも食べ続けるだけでもなんでもいい。

何を最優先したいのか、どこへ向かいたいのか。
それを定めてしまうことで行動に制約が出てしまう場合もある。
自分には合わないと思う行動パターンは排除してしまい自由に動けなくなる。
その繰り返しで、退屈な人間になっていく。

やりたいことはなんでもやって、やらなかったという後悔だけはしたくないし、興味が少しでも持てたなら調べてみるべきだし、行ってみるべきだ。

面白いものを見つけたり、知ったりしたならば、それを誰かに伝えて、知を共有していく。

消費されるだけの日常のなかに、わずかな喜びが産まれると思う。

他人を知りたければ、自分で予測するのでなく、直接話を聞く。

他人の内情、心理を予測してみることは、無駄な行為ではないかなと思うようになってきた。

心理学とか哲学とかコミュニケーション術みたいな自己啓発系のものを読んで精神世界の話を知っていくなかで、きっとあの人の本心はここにあるのではないかとか、表情から読み取れることはとか、声のトーンからとか、ごちゃごちゃと考えながら生きてきたが、そう無理に難化させる必要はない。

相手の言ったことだけを見ていけばいいと思う。

直接相手と会話をして、その人が発した言葉のみを真実と捉えていってしまうくらいでいいのではないだろうか。


行間を読む。
言葉や文章で表現されていない不透明な要素を読み取ること。

この力の必要性をずっと考えてここまでやってきた。
だが、その読み取る力が、どれだけ成長したと自分なりには思っていても、まったくもって見当違いであることは多々ある。

結局は自分で勝手にストーリーを組み上げていくだけになり、真実とかけ離れていってしまう。

なので、機械的に、プログラムの指示文のように表現されていることのみを追っていくほうが、正確な情報を結果的には得ることが出来るのではないだろうか。余計な労力をかけることもなく。

ここまでの話は、悪意のある嘘や、陥れたり、出し抜こうという方面の会話は考慮に入れていない。

あくまで他人を理解するうで、自分の予測を優先して先入観を固めていくよりも、相手の語る言葉のみを真実とみていくという方がいいかもしれないという話である。

時間と心に余裕を持たせて、生きたい。

体力や気力がすり減ってくると、何か新しいことに挑戦するエネルギーが湧いてこなくなる。
生活と離れたことや非日常的なものに目が向かなくなる。

目の前にあることだけに意識が全て奪われてしまい、生活だけでいっぱいいっぱいになる。

そうなってくると人生に彩りがなくなってしまい、楽しいことなんて何もない、ただ同じルーチンだけの日々、つらい。とマイナスな気持ちが強く現れていく。


口から出る言葉も半径5メートルくらいくらいの話題ばかりだし、仕事で役に立つかどうかばかりが目的になっていく。

無駄なことは極力排除していきたいみたいな、退屈さが際立っていく。
そうなってくると、なんだかつまらない人生だなって思う。

まだ未経験の面白いことには挑戦したいし
、新しい刺激が得られそうなイベントとか、場所にはなるべく訪れたい。
興味を惹かれるようなユニークな人の話も聞きたいし、関わったりしたい。

その気持ちを枯れさせないようにするには、なるべく働く時間を減らすしかないなと自分の場合は思う。

職場の人間と同じ空間にいるだけで、めちゃくちゃ疲れるし、たいした仕事をしなくてもげっそりとしてしまう。
心身共にボロボロになるまで働くのは向いていない。
気持ちに余裕を持たせて、自分なりの面白い世界を構築していきたい。
そのためにも、出費は極力抑えたいところ。
お金を遣えば遣うほどに働かなきゃいけないから。
少ない収入でも豊かに生きるには、無駄なものは全て省くしかない。
余計なストレスは抱え込みたくないし、望んでもないことでイライラもしたくない。

完全に働かなくていい状態になることが一番の理想だけど、何をどうしたらいいのか全然分からないし、そのビジョンを思い描くことが出来ない。


面白いことが出来ている人間は総じて、時間的にかなり余裕がある状態だなと感じている。
時間の余裕が、心の余裕にもつながっているし、興味の赴くままに挑戦もできる。

現実というオープンワールドをうまくプレイしていきたいなー。

10代の頃、全てが不自由だった。

子ども頃、とにかく食事の時間が嫌いだった。

食卓につけば、学校の勉強のことについてとやかく言われ続けるからだ。
食事が始まるとすぐに全てを胃に流し込んで、食事を作業の様に終えるようにしていた。

その頃の影響からか今でも食事に興味が無いし、そもそも面倒だとしか感じない。
作る楽しさには目覚めたが、食べることは割りとどうでもいい。

基本的に自分の部屋に閉じこもりっきりで10代を過ごした。

インターネットの回線も引かれておらず携帯電話も持っていなかったあの頃。

僕が部屋の中で出来ることは限られていた。

多量に買い込んだ漫画の山を何度も読み返すこと。
漫画の気に入ったキャラクターやシーンを模写すること。
小説を読むこと。
短い物語を自分で書いてみること。

休みの日に誰か友だちと遊ぶということも数える程にしか無かった。

全てが無気力で、何の才能も結果もなかった。

勉強も出来ず、スポーツも出来ず、女の子にモテることもない。
ないない尽くしで、自信を持つことなんて生涯無理だろうくらいに潰れていた。

その頃の自分は、居場所が無くて孤独を感じ続けていた。
どこにも馴染むことが出来ず、本当に心を許し合える友人を持つことも出来ない。
とにかく苦しかった。

それでも、懸命に日々を生き抜いていたと思う。

今は、あの頃に比べれば明らかに幸せだ。

辛いことや苦しいことや、嫌なこともそれなりにはある。
完全にストレスゼロの生活を迎え入れることはできていない。

だけど、自分の頭で考えて、それに従って行動を取るという生き方は出来るようになった。
それだけでも自由が得られた気がしている。

過去の自分を否定しても、それも自分の一部だったわけで、消し去ることはできない。
また、消し去ろうと考えることは間違い。
人生は過去からの不断の一本道であり、色々と遠回りしたり立ち止まったりしながらも、続いてきている。

その頃に感じたことや、思ったこと、見たこと、聞いたこと。
それらの要素が絡み合って、今の自分が形成されている。
何か1つでも欠けていたら存在していないのだろう。

そう考えるようにすると、無駄な時間なんてものは無かったことになるし、どれだけ地獄の苦しみを味わったとしてもそれが今に活きていることになる。

自分に無い物だけを追い求め続けてきた。
出来ないことばかりを見つめてきた。
出来ることや知っていることは、役に立たないことばかりで何の意味もないんだと絶望していた。

だけど、そんなことを言い続けて1人で過ごしていても、何も変わらない。
そう考えてからは、あらゆることに挑戦し、あらゆる人間に会ってきた。

それでもまだまだ足りないなと思う。
世の中には面白いことがもっとあるはずだし、それを知らないまま生きていくことはもったいない。

10代のころに辛かった理由は、世間を知らなすぎたということ。

目の前の現実しか知らなかった。
もっと外があることを考えてもみなかった。

学校が全てだったし、家が全てだった。

大人は、親と学校の先生しか存在していなかった。

無知であることは、本当に辛い。

今も十分に無知だけど、無知であるという事実をしっかりと理解出来ている。

当時は、無知であることをも理解出来ていなかった。

人生の限り在るリソース。時間、体力、生命。
それをどう遣っていくか。
それを考えていきたい。

インターネットに文章を書くことは面白い。

インターネットで無限に情報を追いかけていると、どれだけ時間があっても足りないなと思う。

見ても見なくてもいいものばかりといえば、そうなんだけど、何か気になるものを1つ見つけるとそこから関連していって別のことにも興味が出てくる。

そんなに調べているなら、それをまとめ直してブログとかに文章として発信したらいいのかもしれないけど、そこまでの熱量は出てこない。

ライターとか、文章を生業として生きている人は、そういうことが苦にならない人たちなんだろうな。それどころか喜びでしか無いのかな。

かくいう自分も何かしら書くことは好きで、日記をネット上で書き続けることで心の安定を図ってみたり、気分転換に用いてはいる。

文章を作ることは特別な才能も必要とされないし、誰でも出来てしまうという手軽さがあるのに満足度は高い気がする。お金もかからないし、たまに反応を貰えてコミュニケーションもできるし、読んだ人がそこから何か思うところがあれば派生的にもなって面白いなと思う。

詩人の最果タヒさんが、ネット上の発言は川に投げ込んだ小石の様なものといった話を書かれていた。引用してみる。

ネットで公に何かを発言することは、だれかの自己表現の踏み台やソースになりにいくことだよ。コミュニケーションなんて期待しちゃダメだし、むしろそういうのが楽しくないと辛くなるよ。
湖に落とした小石のように波紋を生むだけで、跳ね返ってはこないインターネットが好き。

これにはすごく納得させられた。
的を射ている解釈の仕方だなと思う。

直接的にはレスポンスを得られなくても、そこに確かに存在しているし、それがどこかで何かに繋がっていくみたいな不透明感やその曖昧な距離感がネットの魅力なのだろう。

面白いな、インターネット。

ブログの話と、読書の話。

文章を書きたい時は当然だが、書きたくない時も、とりあえずブログを開くようにしている。

本を読む気力も出ず、何かを考えてみることも、家事をすることも出掛ける気にもなれない時には、とりあえずブログを開くようにしている。

Twitter上に言葉を並べて、それがすぐに流れて消えてしまっていくのもいいけれど、それだと書いたという気持ちが満たされにくい。

あの時、何処で自分が何を思っていたかについて残したいならばブログを利用するのがいい。

過去に書いたものを読み返してみても、なんでこんなことを書いたのだろうか、今なら書く気になれないなとしか思えない様なものも沢山ある。
3年くらい経過してしまえば、それくらい人は変化していくという証なのだろう。

生活のどの部分を切り取って、それをどの表現法を用いて表していくのか。そのセンスが磨かれている人の言葉を見るたびに、心の底から羨ましく思う。
それは幾らお金を積もうとも手にすることの出来ない力だし、何をしたら学べるのかも分からない。

その世界に少しでも近付くためには、世の中にある文字を全てくまなく吸収するように努め、感じたことや思ったことは書き記していく癖を持ち続けるべきなのだろう。

とにかくめっぽう、文章がうまい人間は、それこそ小学生の頃から真剣に本を読んでいる。
それを大人になるまで継続しているのだから、歴然とした差が発生してしまっても仕方がない。

自分がようやくまともに本を読み始めたのは25歳を過ぎてからなわけで、10年以上のブランクとかどう頑張って埋めていけばいいんだろうという思いがある。(漫画はかなりの数を読んでいたけど、基本的には中身の薄いギャグ漫画ばかりだったし…)

だからとりあえず数で勝負するかと思い、月に50冊をキープするように努めていた時期もある。数をカウントしてもそれが全てではないけれども、とにかく行動量を増やしておくかとの気持ちの表れだったりする。
記憶力も理解力も乏しいので読み終えても
、なるほど分からん状態によくなるし、なんとなく良かった、みたいな感じになることが多々ある。
それでも、読んでいる最中は興奮したり、ひどく感銘を受けたりはしている。

自分が利用している読書メーターてサイトでは、ガチの本読みの方々が多数いて、翻訳家とか編集者とかライターの人とか、仕事も文章の世界のだったりしている。
これまでに読んだ本の数が5000冊以上の人とかもいて意味が分からない。

一生この人たちには敵わないんだろうなとか敗北感を覚えつつも、その存在に鼓舞されている。

これからも何でもいいから文章にしたり、とことん読書をしていくようにはしたいなー。

何の仕事に就いているかで、自分を決めない。

どこの企業に就職したかで、何の仕事に就いたかで人生が全て決まってしまったように考えることは、すこし違うのではと思う。

外の人間からどう見られているかばかりに気を取られているだけで、そこに自分の価値が全てあるだなんて思うことは不幸なのではないだろうか。

思うような仕事に就いたのならば、何もかもに不満を持たなくなるかもしれない。
だが、自分の望む最高の形でなければ、「こんなはずでは」と考え続けるだけの人生になってしまう。
思うような仕事に就いたとしても、自分よりもより幸せそうな人間に対して劣等感や嫉妬心を持ち続けることになり、それが攻撃的な性格を産んだり、他人に嫌がられる人間になっていく原因となる場合もある。


職業や肩書きといったものはしょせん、記号でしかなく、自分を分かりやすく他人に伝えるための手段でしかない。

自分のあらゆる要素を省略してしまい、その記号を使うことにより、相手に勝手に想像してもらうことが出来る。

初対面の相手に対し、自分の仕事を伝えた時に抱かれる印象と、本当の自分は掛け離れている。本当の自分という定義もあやふやな存在はあるけれども、相手が記号に大して示しているイメージとは異なることは確かだ。

で、まあ自分がどんな人間であるかを伝えるのならば、Twitterとかブログを読んでもらうのが1番手っ取り早くあり、本当の自分に近いんじゃないだろうか。

そこにあるのは記号でなく、自分の中にある様々な感情や葛藤を言語化したものであり文章にしない限りは外部に露見しない。

だが、なかなかその言語化も難しくあり、何度も繰り返し書かねば、その真意を伝えることは出来ないし、そもそも何を自分が考えているのかも不透明だったりする。

外部評価ばかりを気にしてしまうのでなく、自分の価値は自分で決めて、どのような生き方を選択するかも考えていこう。