思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

ものごとを深くとらえること

表面的な浅いところでものごとを捉えていては思考は深まらず、先には進めない。

わかりやすく、価値があると思わせてくら単純明快なことにだけ食指が動いているうちは二流であるといえる(何が?)

何の意味があるのだろうか、それが何に繋がるというのだろうか。
目では簡単に見ることのできない関係性を己の感性にて発見していけるようになることは大切である。
しかし、そのことをどれだけ伝えようとしても伝わることはない。

誰でもすぐに理解でき、即効性のあるものだけを消費したがる。
回り道であったり、時間のかかることを苦手と考える人が多すぎる。

正解がなく、自分なりの解を見つけることを不得意としている。
分からなくても考え続けねばならない。
これは慣れの問題である。

例えば、人に好かれるにはどのような行動を取ればよいのか。
会話を円滑にすすめるにはどのような順序を踏めばよいのか。
これだけでも、あらゆる知は必要とされる。
その背景には様々なジャンルの情報であったり、思考パターンが活用されている。

間合いの取り方であったり、言葉の選び方であったりと細かな配慮が必要とされる。

表面的な浅いところのみでは、そこまで会話の質を深堀は不可能といえる。

人との会話は、本を読む行為と同様といえる。相手をどれだけ読み解くかがキーとなる。
誰とでもそれなりに話ができてしまう人は、その辺の扱い方が長けている。
これは社交性の問題ではない。

どのようなことにでも立ち止まり、考える習慣を持つべきだと伝えたい。
その思考の訓練が、人生を切り拓いてくれることは確実だといえる。

ブログを自分のために書いてきた。

自分に言い聞かせるためにブログをかつては書いてきた。

新たな習慣を身に染みさせるためであったり、新たに知りえたことを再度自分に説明するためであったりなど。

しかし、今はもうそういった欲求がない。

特段、自分に語りかけたいことがなくなってしまった。

書いたりする暇があれば、先に実行に移してしまうようになったからかもしれない。

何かきになることがあるならば、すぐにでも始めてしまえばいいわけで、ぐだぐだと御託を並べる時間なんてもったいないとしか思えなくなってしまった。

あと、ある程度、自分がかつて理想とした形、価値観に近づいてしまったためかもしれない。

まだやりたいことであったり、気になることは多々あるが、現実と理想のギャップに苦しめられるといった状態がなくなった。

劣等感に苛まれることがなくなったのは、自己理解が深まったことが関係はしている。自問自答を繰り返したり、人との会話を深めたり、文理問わず様々な書を手にし、映画も結構な数を観た。内部と外部から自分知ろうとした。ある程度、どのような人間かを理解できたと言える。

そのため、答えのない苦しみであったり、人との比較により自分を全否定してしまう思考からは脱却できた。

もちろん、自分には足りていないことが多々ある。
そしてまたその溝を埋めることが非常に困難であろうこともある。

しかしその部位を埋めたいかといえば、そうではない。たいして望んでいないのだ。現状に満足してしまっているだとか、自己成長を望まなくなったとかではない。

結局のところ、自分が興味がないだけのことなのだ。少しも面白いと思えていないだけのこと。

生きたい方向性が決まったのならば、ただ先に進むだけ。
それ以上でもそれ以下でもなく。

迷うことはない。

思考するときに、人は存在する。

自由とは、思考する私となって群れから追い出されるというよりも、群れから逃走することなのである。

より

群れから外れ、死に脅かされるときにこそ思考する。

デカルトが述べた「私が存在するのは思考するあいだだけ」にはとても共感できる。

生きている実感をもてるのは思考している時だけだ。

自由とは自分が思考した通りに振舞うという意味である、という。
秩序に組み込まれたニンゲンはもはや思考することはない。
思考は退化し、息を潜めて群れの動向をうかがいながら、ときに権利を要求するだけとなる。

死の病いと生の哲学 (ちくま新書)

死の病いと生の哲学 (ちくま新書)

  • 作者:船木 亨
  • 発売日: 2020/07/07
  • メディア: 新書
より


組織に属し、ルールに従い其処にとどまり続けていると頭は不要になる。言われるがままに行動を取れば優秀とみなされ評されることとなれる。
そこに思考はない。皆無と言ってよい。

ときに権利を要求し、それをのんでもらえれば、他に思うところはなくなる。


私は群れから外れ、死に脅かされようとも存在し、生きていきたいと思う。思考のできる人となり死まで向かいたいと思う。

数字ばかり気にしても仕方ないかなと思うようになった

わりと数字ばかりを気にしてきた。

ネットの話だけどね。
というかフォロワー数とかの話だけど。

アクティブ数とか投稿数とか。ブログ書くなら文字数とか。

リアルなら読んだ本の冊数とか観た映画の本数、聴いた曲数とかも。

だけど、そんなことばかり考えても楽しめないなと分かってからは、まあなんでもいいかなという気持ちになった。

以前は、なんでもかんでも数値化することでRPGゲームのように経験値を稼げてる気がしていたという感じかな。

「結構、成長できたな」というふうに。

単純に増えていく数字を眺めるのが面白かったし、どんどん増やしていきたいなという情熱があった。それに支配されていた感じもあったけど。

興味の方向性というものは月日の流れのなかで本当にどんどん変化していくもので、今は文章を書くことも面白いと思わなくなった。

ブロガーとして生きていきたいとか、ライターになりたいと本気で思っていた頃もあったけど、もう無理だ。


ただし、ある程度は書く習慣を残しておかないと何も書けなくなってしまう。
なんでもいいから書いた方がいいのだろうな。

怒ることについて。

怒ることってめちゃくちゃエネルギーを消費するし、そもそも相手に説明しなきゃならないことが、とてつとなくめんどくさい。

よって、昔からあまり怒りの感情を表現してこなかった。

しかし、世の中には一から十まで説明してやらねば理解のできないバカというのが一定数は必ずいるもので、むちゃくちゃ当たり前のことでさえも気付けないものだったりする。

だから、説明が必要だ。

こんな当たり前のことも言ってきかせなければならないのかという絶望感と、呆れから正直なところウンザリする。

また、言ってみたところでその意味を相手が理解できるかも分からない。分かるまで話さなければならないのか。そこまでする必要がそもそもあるのかとも思う。

基本的にはすべてのことがどうでもよく、興味関心が一切ないのだが、距離の詰め方が全然分からないやつにはいうしかないわけだ。

こうやって文章で伝えてもいいのだが、そこはやはり面と向かって声を出すことで、意味合いも変わってくる。
ならば相手を前に言うしかないわけである。

今後、自分にとって身につけていかねばならないのは正しい怒りかたと、その伝え方だなと痛感している。

こういうものは慣れであることは間違いなく、何度も繰り返していけば出来るようになる。

人前で話したり、何かしら話題を引っ張り出し、その場の繋ぎの役目を果たすことなども慣れである。

世の中に必要なのは、怒りの感情を沈めたりすることでなく、正しい怒り方だ。

集団行動は永遠に慣れない。

いつまで経ってもムリだなと感じることがある。集団行動を長時間強いられること。

これが本当に精神的につらい。

どれだけ相手と仲が良かろうがあまり関係ない。苦手な相手といるよりは全然いいけど、複数人で同じ空間にい続けることほどの苦行は他にはないなと強く思う。

自分は他人とうまく話せないとか、体力がないとか、ネクラだみたいに10代のころは何もかもを自己責任にしていたけど、単純に集団行動にめちゃくちゃストレスを感じるだけだったのだなと今なら分かる。

そうか、あの時もこの時も長時間にわたって他人と交流させられ続けていたことで心底疲れ果てていたのだなと。

最初の2時間くらいは気持ちを保つことが出来る。だけどそれ以降は本当にしんどい。いつまでも会話を続けることができたり、永遠にふざけあっていられる人たちって本当にすごいと思う。


もっと最後まで人付き合いをしなきゃいけないのではとか、途中でめちゃくちゃ口数が減って無表情になるのは失礼なのではとか考えていた頃もあった。だけど無理なものは無理だし、自分には向いていないだけのこと。

面倒な相手とは付き合う気にはなれないし、あまり会話をしたいなとも思えない。
異常に他人との距離感が近い、パーソナルスペース無視のひとたちはあまり関わりたくないなとよく思う。まあだいたい適当に対応して終わらせるけど。

個人の時間は必要で、SNSとかグループラインとかは本当に害悪でしかないなと考えてしまう。

【感想】映画『回路』 黒沢清監督 【考察】

映画『回路』観ました。

回路

回路

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

一人暮しで平凡なOL生活を送るミチ(麻生久美子)。ある日、ミチの同僚が自殺。勤め先の社長は失踪。次々に友達が、家族が消えていく……。一方、大学生活を送る亮介(加藤晴彦)にはインターネットを介して奇妙な現象が起き始める。 胸騒ぎを感じた亮介は、同じ大学で奇妙なインターネット・サイトを研究している春江(小雪)に相談を持ちかけるが……。


2000年の作品。
今から20年前。ひと昔前ですね…。

パソコンやインターネットがまだまだ一般的に普及しきっておらず、ネットの世界が不気味だった頃ですね。

2ちゃんねるとか犯罪の温床というイメージでした。まだ完全匿名性の頃かな…。

インターネットの世界の
顔をつきあわせた付き合いじゃなく、顔も知らない何処かの誰かと繋がるということの危険性や気持ち悪さがよく表現されているなという感じでしたね。

幽霊の正体

これはインターネットの向こう側にいる人々のことでしょう。
あなたのことをパソコンの向こう側から見ているということ。
直接関わり合っているわけではないけど、同じサイトや掲示板に一緒に存在はしている。
見えない誰かと繋がることで、孤独は深まっていくという。

そこに人の気配はあるけど、誰とも関われない時って、1番孤独を覚えませんか?

シミの表現

そこに確かに存在はしているけど目には見えない相手。幽霊とほぼ同じでしょうが、掲示板の書き込みとかがシミに当たるんじゃないでしょうか。

赤いテープの部屋

現実とバーチャルの世界の境界線ですかね。
インターネットの世界に取り込まれてしまった人たちの空間というか。
「長い長い孤独だった…」と言ってくる幽霊の男がさいごには登場してましたね。


春江(小雪)が部屋で見た透明の存在

春江(小雪)が自分の部屋で、見えない誰かを見つけて側に寄っていくシーン。

「1人じゃなかったんだ」みたいなことを嬉しそうに言っている姿が、パソコンの画面に映し出されている。

画面の向こう側にも、誰かが存在していることを知ることが出来たってことですね。

『回路』は、まだまだネットの世界が不透明だった時代の話

今現在だとこの作品はなかなか感覚として捉えにくいんじゃないかなと思いますね。

カメラ通話が当たり前ですし、様々なSNSやLINEがあるのでぐっと互いの距離が近くなった。
逆に匿名性の維持が難しい時代です。
簡単に身元が割れますからね…。

ラストの意味

インターネットという新しい文化が世界を崩壊させてしまうのではないか。
どこに自分たちは向かっていけばいいのかが分からない。


といった、印象を受けました。


少し話が変わりますが、『〜北の国から〜2002遺言』で五郎さんが大介のケータイ電話を川に投げ捨てるシーンを思い出してしまいました。

「顔も声も知らない相手と付き合うって、どういうことだ…? 付き合うってそういうことじゃないだろ…?」

と五郎さんが、メル友と恋愛関係になっている大介を説教する場面。

まとめ

生身のコミュニケーションを取ることを避け、パソコンの画面を見続ける不気味な姿は、死んでいるの生きているのか分からない。 幽霊と同じということですね。

そう考えると、今のインターネットはずいぶんと明るい方向へといってくれたなーという印象。


『回路』は、色々と考えさせてくれる良作でした。