長文を書かねば、文章体力がいつまでも身につかない。
この議題に関しては、確かにとうなずける。
文章体力とはその言葉通りの意味合いで、文章を書き上げる体力のことだ。
短い文ばかり書いていては、体力は上がらない。
無理してでも、ある一定量の文章を書くことは大切だ。
最初はつらくとも、繰り返し書いていけば、何となく書けるようになってくるもの。
一度身に付けば、書く練習をサボろうともある程度は体力が保てる。
筋トレと一緒だ。一度筋肉をつけてしまえば、体がその筋肉量を覚えていて、次に筋トレをするときに、筋肉が割とすぐにつく。ちょっとスパンが空いたとこで問題ない。
ただ、一つ長文を書く上で注意したいことがある。
長文はネットではけんせいされがちだ。理由は読むのが面倒であるからだ。
ネット上で文章を読むとなると、短文、短時間でサクッとがいい。
長文となると、よほど文章が読みやすいか、その人に興味があるかとなる。
興味がある相手とは芸能人であるとか、何かしらの特性、クレジットがある人のこと。
もしくは、個人的に好きな知り合いとか。ただ、そのような個人的に好きな知り合いレベルとなると、多数に見てもらうネット上では内輪ネタになりかねない。
内輪ネタならフェィスブックで充分。数十人にいいね!をしてもらって満足しておけばいい。
ただ、本当の意味での文章体力向上となると、長文に挑まざるを得ない。
しかし、長文を書くことは難しい。
なぜ難しいのか。文章力もさながら、あらゆることに対する斬新な目線も必要とされるからだ。
ありきたりな事や、わざわざ書くまでも無い駄文を連ねていては読む方は、退屈でしかなく、時間の無駄だと判断し読むのを中断する。
なので、ある程度の考察力、洞察力を要する。
読む手を引き込み、最後まで放さないとまではいかないでも、それ位の勢いは大切かもしれない。
しかし、ここに関しては女性は得だ。
なんかオシャレっぽい可愛い子が書いているとか、サブカル、オタク文化に精通してる風変わりな子が書いているとなると、途端にネットユーザーの食いつきレベルは増す。
文章力がそんなに無くとも、その個性に惹かれ読もうとする。読んでいる自分はセンスがあると思おうとするのだ。いや、読むことによって、どこかしらのでその子と接点を持ちたいのだろう。出会いたいと心のどこかで思っているのかもしれない。
もしくは自分が育てた、というアイドルプロデュース的な気持ちがどこかにあるのかもしれない。たかが、ブログと言えども、そういった感情を持ってしまうのだろう。
ああ、男とはなんとも単純で情けない生き物なのか。
次に、読んでもらえるとしたら、オタク学生の場合だ。
ここは少し偏見があるが、ある一定レベルの大学に属しているオタク学生のブログは受けがいい気がする。やはりこれもある種のクレジットなのであろうか。
オタクが故に、特徴的なネットスラングを多用し、また、考え方も2ちゃんねらーよりであるため、ネットユーザーに受けがいいのだろう。一般受けがいいとは言えないが、2ちゃんねるのまとめサイトを誰でも見るような時代になったから、ある程度の一般受けもあるのかもしれない。
そして、なによりも、学歴に注目がいくのだろう。ああ、高学歴の子はこんな事を考えるのかとか、さすがだなと思ってしまうのだろう。
確かに、Fランクの学生が言うよりも、1流大学の言葉の方が有難味があるのかもしれない。さすが学歴社会。(学歴社会は崩壊しつつあるが。)
では、何の特徴もない人が長文で人を惹きつけていくにはどうしたらいいのか?
答えは明確だ。何度も長文に挑戦して、「長いけど読みたくなる文章を書けるようになる」ことだ。これしかない。
えー、何かコツを伝授してくれるのじゃないの?と思われそうだが。繰り返ししかない。そもそもそんなコツがあれば、僕自身困らない。まだ、長文なんて慣れてないし、どのように展開していけばいいかなんて分からない。
やみくもに練習しては非効率で、ある程度の文章の型が大切だと思われるだろうが、下手に戦略ばかりに注目して敷居をあげるより、今自分に出来ることに集中したほうがいい。
囲碁の世界だって、定石にこだわるより、自由に(直感で)打つ方がいい手が指せる。なんでも型にはまり過ぎない方がいいんだ。
ただ、ある程度の型やレールがある方が生きるのは楽ではある。
自分で考える必要が無いからね。