思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

他人に頼らない生き方を目指す。


なるべく他人に頼らない生き方。
それを自分は実践していくようにしている。いわゆる無頼といえようか。
そんな他力本願ではない生き方について書いていこうと思う。


全く頼らない生活はできない

頼らない生活と言いながらも、完全なる自給自足は事実上不可能である。
周囲からの恩恵無しでは生活は成り立たない。

まず、そもそも賃貸契約を行い、住まいを確保している時点で他人の力を利用している。電力等のインフラ然り。

しかし、なるべくは自分で出来る範囲のことは自分で済ませてしまおうの精神は必要なのではないかと思っている。

自分で出来るようにした方がいい事のライン引きは大切

これは少し調べれば自分で出来るようになるからやってしまった方がいい、という感じの項目は多くある。
ちょっと面倒だからとか、後回しにしたいから、その間に誰かやってくれないかなみたいな習慣は良くない。
誰かに任せることは、結構なストレスを抱えることになる。
「自分で全てやってしまいたい病」にまでいくと問題も発生してくるが、なるべくは自力で行動するようにしておくと生きやすくなる。これは絶対的にそうである。

自分で調べる習慣、やってみる癖はマジで役立つ

これは、めちゃめちゃ役に立つ。
だいたい、世の中の殆どのことは何処かの誰かが成し遂げているわけで、出来ている人間がいるのに自分だけ出来ない訳がない位のスタンスで生活するとよい。
調べ方にもコツがあったりする。そのコツはどうやって掴むかといえば、自分でまずは出来ることから始めてみるというのが大切だ。そこから結構、道は開けていく。
出来るかどうかとか迷ったら、勢いで始めてみよう。ただ、最低限のリスクヘッジは必要である。旧日本軍の万歳攻撃のようなモノでは困る。

問題にぶち当たった時に解決策を導き出せばいい

人生はどこに壁があるのか分からない。
それが全てあらかじめ見えていれば、前もって対処可能だろうけれども、そうはいかない。
ならばとりあえず進んでみて、壁に当たった時に解決策を見つけていけばいいと思う。
特に、自分の生命に関わることとなれば、全力で抜け道を探し始めるはずだ。


案内人を待ち続けるだけの人生にさよなら

何もせずにぼーっと生きてても、誰かが助けてくれるとか教えてくれるとか、やってくれるとかの妄想を持ち続ける人間はダメだ。
自分から働きかけなければ何も起きない。いい加減にその事実に気付くべきだ。
ひと昔前までの自分は、待つタイプだった。周囲の誰かが面白いことに巻き込んでくれるんじゃないかとか、すごいラッキーなイベントが発生するんじゃないかとか、そんな感じの生き方を選択していた。
だが、それでは何も前には進まない。
自分が出来ること分かることに対しては積極的に働き掛けるべきだし、その上で、分からないこと出来ないことだけを、他者の力を利用していけばいい。


おわり。

お金を稼ぐ方法を増やすと楽しい。

複数の稼ぎ口を持つようにしておくと精神がほんの少しだけ安定してくるな、と感じるようになった。

稼ぎ口といってもそんな大それたものではない。ネットオークションで家の遣ってない物を売ったり、本屋などで見つけた高く売れそうな本を出品したりしているだけのことである。
それだけでとても生計を立てられる訳ではないが、会社に完全に頼らざるを得ない状況よりも心にゆとりが持てている。

あとは、ブログから会員費プラスちょっと位のお金が貰えたり、Amazonからたまにギフト券を貰えたり、クラウドソーシングやアイデアを売るサイトで小銭を稼いだりと、なんか多少は手に出来ている。

全然やる気のなかった学生時代のコンビニバイト代くらいにはなっているんじゃないだろうか。


仕事でのストレスを消費活動で発散させて精神を保っていくよりも、仕事する回数をなるべく減らしつつ、休日の暇な時間を利用して小銭を稼ぐライフスタイルのほうが心に優しい。

減っていく一方ていうのは、すごく疲れる。また、それに慣れきってしまう。
人生はそんなもんだみたいな達観した気持ちになりやすい。

働くことは辛いんだとか、お金を稼ぐことは尊いとか大変な行為であるとかの思考に陥りやすい。


もっとこんなことでお金を貰えのかよ、みたいな体験や経験を増やす努力をするといいなと思っている。

そのほうが楽しいし、色々と挑戦したいという欲求を持てる。

凄いスキルを身に付けられるとは思っていないが、ちょっとずつでも出来ることを増やしておくと生きやすい。


おわり。

苦手なことは苦手でいい。


夜遅くまで外出したりして遊ぶことが苦手になった。

昔は、呑みに行ったりして深夜まで遊ぶのが楽しいことなんだ、若いってことなんだ、みたいな気持ちを持てていたのだが、違和感を覚えるようになった。

夜は1日の疲れがピークに達している

まず自分の体力的な問題から言うと、夜に遊ぶのはとても辛い。
そもそも早起きが習慣化しているので、夜型生活人間と比べて、夜を迎えた時点での1日の稼働時間が数時間も多くなっている。それでいて、同じパフォーマンスを発揮するのは、どだい無理な話なのだ。
そして、とりわけ自分はとにかく疲れやすい体質なので、外で多数の人間たちと交流し続けるとボロボロになってくる。
これはもう、どれだけ仲の良い相手だろうが、例えば好意を自分に寄せてくれている相手だったとしてもキツくなってくる。

朝、もしくは昼からの付き合いをお願いしたい

1日のうちで交流可能な時間帯は、飲食店や娯楽施設の開店時間を考慮しても、午前9時くらいからである。
朝から集まったりすれば、まだ睡眠から覚めたばかりで体力も残っているのでそこそこ快適に行動できる。
だいたい夜は生物は眠りにつくべきだと思う。
人工的に無理やり灯りを作り出してまで行動をしようとするのは間違っている。
日の入りと共にその日の活動を終了し、明日のために体調を整える態勢に入るべきだ。

自分のルーチンを壊されることへの抵抗感

長年生きていると、自分がある程度快活にやっていけそうな行動パターンが決まってくる。

例えば自分の場合は、夜は10時半くらいまでには睡眠に入っておくと次の日もうまく行動できるとかがある。

夜ご飯は、夕方4時過ぎから6時くらいまでの間に食べるようにすると寝る頃には空腹になってきているために、良質な睡眠を得られるとかもある。
空腹状態で寝た時の、体力の回復力は眼を見張るものがある。

後は食べ過ぎないことも心がけているし、味噌汁は1日1回は飲むとか、野菜も何かしら食べるとかを決めている。

お金の遣い方に関しても、ほとんどルールが出来上がっている。
1人での外食は必ず500円を超えないようにするとかもある。

ただし自分が決めた生活のルールは決してギチギチに守るようにしている訳では無く、もちろん例外もある。

だけど、それは自分が納得いった場合のことである。
周囲に強要されてとか、流れで自分もせざるを得ない雰囲気とはダメだ。
普通に抵抗するし、急に帰ったりする。

ルーチンがあると、自己管理しやすい

行動ルールを決めておくと自分の今の状態を分析しやすくて、とても良い。
野菜不足で肌が荒れてきたぞとか、今日はたまたまコーヒーを飲んでしまったから全く眠りに付けなくなったんだなとか、なんだか今日はイライラしがちなのは昨日の夜更かしが原因かとか、分かる。

お金の管理もしやすい。
わざわざ収支を記録したりしなくても、どこで遣い過ぎたかに直ぐに気付ける。

決めごとが無ければ、周囲に振り回されっぱなしになる

もし、自分に決めごとが1つも無ければ、間違いなく周囲の人間たちにいいようにされてしまう。
どんな誘いも断れなくなるし、自分が何が1番心を安定させることが出来るかも不明確になってしまうだろう。
それはとても不幸なことだ。
自分を見失って生きていくことほど、しんどいことはない。
自分はこっちの生き方のほうが楽だなとか、幸せに思えると感じたならば、それに従う。

全ては自己責任になっていく

他人は責任はもってくれない。
例えばクルマの運転では、後ろ車が凄いスピードで煽ってきたから自分もスピードを上げたら、前方のクルマに突っ込んでしまったって事や、人をはねてしまったって事も起こり得る。
「俺が煽ったばっかりにこんな事になってゴメンな」なんて言って助けてくれるわけがない。

ギャンブルや投資だって、他人の助言に従ってその通りに財産をつぎ込んでみて、破産したとしても助けては貰えない。
「俺がいい加減な助言をしたばかりにゴメンな。ほら、全額負担するよ」なんて事も無い。

全ては自己責任という言葉で片付けられてしまうのだ。


自分を守れるのは自分だけ

なんだかとても話が逸れてしまった。

夜遊びが苦手って話じゃないのかよとなるが、そこから周囲に惑わされんなよみたいな話に発展していった。
まあこの予測不可能さが文章を書くことの面白さではあるのだが...
そして結論としては、自分の身は自分で守れみたいなことになっていく。
他人に合わせ過ぎて無理すんなよ、という言葉で締めくくりたい。


おわり。

気持ちは1つの場所に吐き続けるほうがいい。



文章を書く場所は減らしたほうがいいという話。

プロの場合はどんどん色んなメディアで文章を発表していって、それをまとめたものを書籍化出来るから、ガンガンに書いていくべきであるのだが、何でも無い普通の人は1つとか2つに留めておいたほうがいい。

言いたいことは一度書くと、浄化されてしまう

自分の中に強い熱量を伴った言葉が湧き起こってきた時はすぐさまにブログに書いたりツイッターに一言でもいいから綴るのがベストである。
しかし、一度書いてしまうと飽きてしまうというか、自分の中でひと段落ついてしまって、急速に想いが萎んできたり、別のことに興味が移りいくことは多い。
気持ちが浄化されてしまうのである。

なるべく大切な場所を先行して書いていく

俺はブログをずっとやっていきたいぞー!とかそういう心があるのならば、是が非でも、何の話題でもいいからブログに書くようにしておくといい。
これはブログにまとめる程の話じゃないから、あのSNSの日記書いておくかとか、匿名であの掲示板に書いておくかとかしていると、全部中途半端になってしまう。

使い分ける知恵も大切なのは間違いないのだが、言いたいことは1つの場所で発表していく癖を付けておいたほうがいいと感じている。
ブログをかれこれ3年近くやってきて感じたことだ。

想いは小出しにしないほうがいい

体力と同じように、気持ちも時間の経過のなかで徐々に削られていく。
朝起きてから夜寝るまでの間に、だんだんと体力が失われていくように、思考も1日のなかで少しずつ力を失っていく。
色々と言いたいことがあったけど、ちょっとずつ愚痴ったり、ネットで呟いているあいだに、なにが言いたかったか忘れてしまったということはよくある。

絵を描いたり音楽を造ったり、小説を書いたりの芸術的表現者だとコレはかなり致命的なんじゃないかと思う。

様々な葛藤を溜め込んで、1つの作品に昇華させていく作業がうまく回らなくなるんじゃないだろうか。

何も作れない人間ほど、意味もないことを延々と小出しにしてしまう傾向にある気がする。
自分もその手のタイプなのでダメだなーと漠然と考えながら生きている。


おわり。

現実のコミュニケーションへの興味が失われてくる。




ネット世界に倒錯し過ぎていくと、次第に実体を失ってくる。
ネットで会ったこともない人たちの生活の様子を見ていたり、会話をしたりしていると、なんかオンラインでのコミュニケーションのほうが本当の世界のように思えてくる。



コミュニケーションをないがしろにしてしまう

現実社会でのコミュニケーションなんか大して重要じゃないと感じてくるし、孤独とか全然考えなくなったり、固定的なコミュニティに属していなくとも、ネットで新しい繋がりを見つけていけばいいやとか、なんかイベントを開催し人を集えばいいんだとか思ってしまう。

側からみれば、全然積極的に交流を図っていかない、深い仲を築こうとはしない奴という認識だろう。

それが良いか悪いのかという話になると、それはもう人それぞれの見解なので、そこまで気にする必要はないと考えている。

どこにリアリティがあるか?

目の前の現実と、インターネットの世界でのどちらにリアリティを感じるかは個人の自由にしておけばいいんじゃないだろうか。

境目なんて曖昧だし、結局ネットの向こう側にいるのは人間なんだし、そこには現実世界が広がっているわけで、区別する必要すら無いのかもしれない。

強い関係性を築けない

1つのコミュニティに属することに強くこだわり、深い仲を求める人々とは昔から一定の距離を取る癖がある。

だんだんめんどくさくなるというか、しがらみが色々と増えていく過程に耐えられなくなる。
あとは、単純に飽きるというものもある。

1つのことを追求していくよりも、気の向くままに新しいことをちょっとずつ体験していく人生のほうが自分の性にはあっている。



おわり。

10年という歳月で何もかもが移り変わっていく。



10年前と同じ場所で写真を撮影したっていう記事がよかった

特になにを撮ったというわけでもない街の風景。そういうのがいつの間にか、そこそこ貴重な記録になったりする。

10年前のアルバムを見返して、同じ場所で写真を撮ってみることにしました。

引用したこの言葉通りに、出てくる写真はどれも資料的価値のあるものだった。

たった10年という短い歳月の中でもこんなに街は変化していくのだなと感じた。

10年前と言えば、ちょうど自分が上京する直前位の頃だ。まだ地方にいた。

今自分は30歳だ。
当時の弱冠20歳の頃を思い返してみても、あの当時でも充分に世の中は発展しているし、未来的だと捉えていた。

だが写真をみていると、たった10年の間に街の風景は、昭和の景色と平成の景色のように大きく移り変わっていた。

街でさえ変わるのならば、人間だって大きく変わっていったのだろう。
毎日の小さな変化の積み重ねによるものなので、はっきりとした自覚は得られていない。

だが、振り返ってみれば、数多くの人間と関わり合い、そして別れていく。もう連絡先さえ分からず、どこで何をしているのか一切不明な人間が無数にいる。それはもう数え切れないほどに。

人との関わりだけでなく、自分の興味関心ごとや、生き方や考え方なども様々な種類のものが自分の中を通過していった。

はっきりと記憶に留めきれていなくとも、様々な経験をしたという事実が、自己に大きな変化をもたらすのだろう。

もし、映画『バックトゥーザフューチャー』のように過去に戻って20歳前後の自分に出会ったりしたら、全然違う人間に感じるんじゃないだろうか。

痛いなーとか、なんか悩む必要もないようなことで苦しみ過ぎだろとか、それは時間の無駄だからマジで良しておけとか、そこは頑張っておけよ!みたいな事を沢山考えてしまいそうだ。

でも、その当時の自分にとっては、それが精一杯生きてみた結果だったと思うので、仕方がない。

また新たに10年経過してしまえば、きっと今の自分に対しても同じ事を、未来の自分は考えてしまうのだろう。

僕たちは何も気付かない間に、何者かになっていくんだな。


おわり。

他人のオススメを受け入れてみる習慣は案外良い。


他人がコレいいよ!て言った文化に対してはなるべく消費行動を取るようにしている。

わざわざ自分に勧めてくれたってことは、間違いなく何かしらの価値の有るモノであるに違いない。

自分の周りにはやたらと映画好きが多いので、様々な作品を勧めてもらえる。

以前は映画を観るのは凄い時間を取られるから、よほど気にならない限りは手を出さないようしよう、と考えていた。

だが、再生スピードを1.5倍とか2倍でも案外観れてしまうことに気が付いてからは、どんどん観るようになった。

通常の再生速度ならば一本しか観れないところを、二本も消費出来てしまう。
すごい効率的だなーと感じたので、1人で映画を観るときは再生スピードを早めて観る習慣が付いた。

今度、暇な時に観てみます!て言って観ないとか、読んでみます!て言って読まないとか、よくある。

本当に観たり読んだりする習慣を付けておくと、「なんかコイツやるじゃん!」みたいな謎の評価を得られるので、いいですよ。


おわり。