思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

もっと面白いことを見つけていくために。流れに逆らわず生きる。


それなりに色んな人間に会ってきたし、経験も積んだような気がしている。
興味を持てたことに対して挑戦してきたつもりもある。
面白そうな本も色々と手にとってきた。

だが、まだまだ不足しているのだろう。
行動量を増やしていき、まだ自分の知らない世界をもっと見ていき知っていく必要性があるのだろう。

面白いモノに日常的に触れてない人間は、少しだけ面白いモノに触れた時に騒ぎ過ぎてしまう傾向にある。
そこまで面白くないモノを大げさに捉えてしまう。
これはその人の世界の狭さを体現することになる。
純粋なんだよ、と言ってしまえばそうなのかもしれないが、もったいなく感じる。

もっと楽しいことや興味深い話は世の中に沢山あるのだから目を向けていくようにしたい。

ルーチンは安心の確保にはなるが、発展性がない。
それだけはなるべく避けたい。

いつもの決まったメンバーで同じことを繰り返していくような生活が自分には合わない。

毎々、完全に異なるとなれば長期的な関係性を築きにくいとかのマイナス面も発生することはするが、面白さがそこには常にある。

もう名前も顔もはっきりと思い出すことが出来ないような相手が数えきれないほどにいる。
そんな感じに生きてきたから、連絡を取れなくなったり疎遠になることに抵抗が全然ないというか、そんな関係が当たり前のように感じる。

必要以上に誰かに固執してしまうこともないし、全ては流れ行くものだとの考えがある。
流れを変にせき止めてはいけない。
そこの空間は淀み始め、腐敗していく。
勝手に循環が生まれるのを待つだけにする。
無理をしなくとも、途切れない相手は時たま現れてくる。
たまにそんな人に巡り合いながら、あらゆる世界に触れて生きていくのが1番いいかもしれない。

99%の努力は、不透明でしかない。1%のひらめきのみが注目される世の中。

トーマス・エジソンの名言に「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」とある。

1%のひらめきを例え持ち得ていようとも、その後の99%の部分を補える能力を備えていない限りは1%のひらめきは無駄にしかならない。

多くの人間は、ひらめきのみが重要であり、独創性が強く価値のあるアイデアを生み出しさえすればそれでいいのだと勘違いをしている。そんなことはない。
紛れもなく、99%の努力を埋めていくだけの根気や思考力が必要である。

例えば、物書きであれば作品を最後まで書き上げていくだけの努力が求められる。
どんなにすぐれたネタを捻り出そうとも、それを文章として完成させていくことが出来るかどうか、それが問われる。
出来なければ、それは無かったことになる。

どんなに素晴らしいタネを持っていようとも持っているだけではダメなんだ。
それを分かっているのか、分かっていないのか。
曖昧な人間たちが多くいる。

本来、無から有へと転換させていく作業は実に面白いはずである。
だが、それが苦痛でしかなかったり、すぐに成果を知ることが出来ないがため、根気負けしてしまう場合が多数見受けられる。
よりもっと長期的な視点で考える必要性がある。
短期的に損得勘定を働かせてしまうと、人生は味無く失敗に終わるのではないだろうか。
少しだけ頑張ったつもりになったところで、自己満足にしかならないのだ。

何年、何十年と成果が出ないかもしれない。
それでもただ、目の前に用意された課題を1つずつ片付けていく。その際には、自分なりの解釈力も駆使するべきである。
ただ単に与えられたことだけを遂行していけばいいというのは凡人への道でしかない。
非凡であるためには、常に頭を働かせておくべきだ。

同じものを見て、同じものを感じて生きていようとも歴然とした差は生まれていく。
消費一辺倒な生涯を選択するのでなく、自分の中に取り入れた事象を他所へ別の形に変換させて出力していくべきだ。それが出来てこそ初めて、非凡へと歩みを進めることが可能となる。

頭を遣うことや悩むこと、自分には才能が無いと打ちひしがれること。
これらを恐れてはいけない。避けてはいけない。
淡々と現実を受けれていく。ダメな自分を知っていく。

あらゆることへ常に挑戦をし続けている人間たちは、自分の不甲斐なさ、無力さを痛感している。
そのため、いつだってより高みへといくことを考えるようになるのだ。

現状維持、他人との同調、自己満足。
その世界にどっぷりと漬かってしまえば、何も考えることがなくなる。
自分を上昇させていく必要性がなくなる。
マジョリティに巻かれることに最高の居心地を感じてしまい、マイノリティは排除の対象としか認識出来なくなる。こうなった人間たちは最高に愚かだ。

自分と違う世界を知る者、見えているものが異なる人種に対して、嘲笑の対象でしかなくなる。
異端はくじかれてしまう運命になる。

だが現代社会において、異端者たちがこうも経済を発展させていくことに貢献しているにも関わらず、それを受け入れられないものなのか。

他人に差をつけられていくことが怖いのだろうか。
いつまでも同じフィールドで過ごしたいと考えているため、その安息の地を壊そうとする人間が憎いのか。

誰もが読まないであろう本を読み、誰も見向きしないような場所を訪れ、誰もが知らない映画を観る。
数多くの様々な種の情報を、手にかざしていく。
自分が本当に望むものだけを見ていく。どのような人間であるかを知っていく。
少しも関わりたいと思わないことには近付かないようにする。
少しでも関わりたいと思えば、そこに踏み込んでいく。

手にしては、手放して。
出会っては、離れて。
何かを知っては、忘れて。

そうやって生きていく。

99%の努力。
これを実現させていくための手短な手段はなにか?
それは、至って簡単である。
最終目標に向けたプロセス書き出していく。
余計なことは一切しない。回り道をしない。
他人の意見に耳を傾けない。したくないことはしない。
したいことだけをする。
自分の中身を使い分ける。
演技は必須。
どの様なキャラクターを演じようともブレない軸を持て。
自己を切り分けること。これが出来ないようであれば生きるのが下手な証。

本当に大切なことは、お金がほとんど掛からない。
どうでもよく、いつ消失しても問題が発生しないような事項に対しては、いつまでも多額の費用を求められる。

完全に自分を納得させられる人生を取得することは困難だ。
だが、そこに近付く努力は継続させていかねばならない。
それは目には見えにくい世界である。
他者より言語化してもらうか、何かしらの実績を残せない限りは不透明が続いていく。

努力は見えない。
どんなに積み重ねようとも、それを理解してもらえる可能性はいつだってわずかばかり。

1%のひらめきだけが注目されてしまう世界。

夢の中で、小学生の頃に感じていた幸福を思い出した。

夢の世界は暖かく平和であり、希望に満ちている。
目覚めたと同時に、内容は忘れてしまったがとにかく幸福な夢だった。

小学生の頃に感じていた、世の中の仕組みは分からないが大人たちに守られながら生きている。見えない壁に阻まれた城に住んでいる感覚。
それを思い出した。

何も知らないこと、無知であることが不幸でなかった時代。
全ての人間が横並びであり、不必要なほどの縦の世界が存在しなかったあの頃。

その感覚を久々に思い出した。

無限に無駄な自堕落な時を過ごそうとも誰にも咎められない、不思議な感覚。
世界の情報が常に押し寄せてくることもなく、目の前のことだけをぼーっと眺めていればよかった。
他人に置いていかれるだの、いち早く他人よりも良質な情報を手にしなければ負け組になるといった、競争性も無かった。

インターネットの存在が無かったことも良かったのかもしれない。
今は、嫌でも他人のことを知ってしまうし、対処しきれない膨大な量のニュースが入ってくる。

恐れなど何もなく、妬みや恨みも存在しなかった時代を再現したくなった。
それと同時に、いかに日常的に数多くのストレスに晒され続けているのかを認識した。

今の一瞬、一瞬だけを見つめながら生活していく。
野生的な、動物的である人生。
それは本当に美しく、どの様な富にも勝る幸福な世界だと考えている。

30歳を過ぎても、人生を楽しくするために。

以前、Twitterで30歳を過ぎると人生の主人公感がなくなってきて余計な期待を自分に抱かなくなってきて楽になる、みたいなツイートがバズっていた。


それを最初見たときは、30歳になったけどそこまで人生を達観できないなという気持ちになった。

だけれども、非現実的な夢を持つことがなくなってきたし、実現可能な範囲でしか行動を起こさなくなってきたなとは思っている。ツイートの通りに、余計な期待を持たなくなってきた証なのかもしれない。

自分の体力量でカバー可能なことにしか挑戦しないし、何もしない休日も怖くなくなった。何年か前までは、「何もしない」なんて選択肢は恐ろしくて出来なかった。無駄な時間を過ごしてしまったという絶望感に苛まれていた。

30年も生きていると、自分がどういう人間であるかをある程度は理解出来ている状態になってくるので、身の丈に合わないことには自然と目が向かなくなってくるのだろう。

そう言ってしまうと、まるで人生に一種の諦めを見いだしてしまったかのようではある。だが、そうではない。


興味のないこと、頑張れそうにないこと、かなりの労力や時間を費やしてもリターンの少なそうことに対して、動く気がなくなったという感じだ。

適材適所とでも言おうか。
なにもかもをカバーしていくのではなく、自分が楽にできることや、理解しやすいことを中心に動いていくのが、1番賢いやり口である。

出来そうなことや、分かること。それらをメインに人生を拡げていけば、余計な期待を持たずとも面白い人生になっていく。

インターネットから産まれる孤独について。

深く突き刺さる孤独について。

インターネットにより個人間の距離は縮まり、常に他人を意識することが当たり前の生活となった。
誰が何を考えているのか、何をしているのか、互いに監視し合うシステムが確立されてしまい、完全なる1人の空間を作ることが困難となった。

通信連絡アプリからはグループチャットの会話内容が流れ続けてくる。
短文を投稿出来るSNSからは不特定多数のひとり言が流れ続けてくる。

インターネットを遮断しない限りは、パーソナリティスペースに他人が入り込んでくる。

別に見る必要もなく、知る必要性もない。
それなのに、絶え間なく入ってくるその情報を見てしまう。

それにより、孤独が深くなっていく。

深い森のなかで暮らす人間は、孤独を覚えることがない。
そこには、端から他の高知能生物が存在していないことを理解出来ているからだ。
無い物を欲しがることもなく、無いものを探すこともない。

だがそこにもし、インターネットがあったならば事情は変わってくる。
1人を強く意識することとなる。
街では、こんなにも楽しそうなパーティーが開かれているのか。
こんなイベントが開催されていたのか。

目の前の生活に集中することを妨害するような情報が入ってくる。
他人と自己を比較してしまうような仕組みがそこにはある。

世の中には、2世帯住宅で暮らしている夫婦がいる。
親夫婦と子ども夫婦で暮らしている家族形態のこと。

いつでも会えるように、もしも何かがあった際に互いに助け合えるようにとの配慮からこの住居システムを利用している人々。

だが、この形態が1番孤独を感じやすくもある。

四六時中、親から監視され介入されることを好むはずがない。
ましてや夫側の両親との2世帯住宅であれば、妻は結構なストレスを抱えることになる。

壁一枚のすぐ隣にいながらも、距離を取ろうとする。
距離が近ければ近いほどに、心は遠くにある。
この境遇が、最も深い孤独になる。

もとから、すぐには会えない長距離での暮らしであれば何も感じえない。
会えないのは物理的問題あるから諦めもつく。
会おうと思えばいつでも会える状況下での疎遠が、特別な苦しさを産む。

インターネットも同様のことである。
スマートフォンを利用していると片手に収まるサイズのなかで、他人の情報を受け取ることが可能となる。
すぐ側にあるように感じてはいるが、そこに自分は介入しておらず、自分を抜いた状態でも何の滞りもなく物事は進行していっている。

今ではインターネット抜きの生活なんてものは考えられない。
現に、いま私が文章を書いて他人へ見せるために利用しているのもインターネットがなせる技だ。

必要不可欠なインフラとなってしまったが、その取り扱い方を意識しておくことが大切だ。
距離感を間違えてしまうと絶望や孤独を深める。

ネット上における自分の場を奪われてしまったがために、無差別殺人を起こしてしまった事例もある。
人間の悩みの99%は、人間関係だ。

人は誰もがみな、孤独を胸の内に抱えながら生きていかねばならない。
それをどう融解させていくかは個人のなせる技である。

コンプレックスと向き合うこと。

様々なコンプレックスを抱えたまま生きていくことは、別に悪いことではないのではないだろうか?

いつまでも自己の発展を願っているという心情の現れであると考えられる。

例えば、学歴コンプレックス。私はこれを捨てることが出来ない。
偏差値の高い大学に行きさえすれば人生は順風満帆になるとは思ってはいないが、間違いなくその穏健は大きい。

学歴は、自己ブランディングする際には最大量の力を発揮する。
その明確なる後ろ盾は様々な場において役立つ。それは就職しようが、しまいが関係なく発動する。


私は劣等感の塊であり、その苦しみから脱するために、とにかく膨大な分量の本を読まねばならないという意識を持ち始めた。

ただ、読み続ければ救われるというものでなく何も変わってないといえば変わっていないのだ。あくまで内部の問題であり、自己評価が変動するだけのこと。

外部評価を得るには、誰もがすぐに理解しえる一目瞭然な指標が必要となる。

それをどの様に手にしていくかについては、思考を働かせていくべきである。

ともかく自分が少しでも成長できるように日々努め、鍛錬の日常を送り続けるのみである。

どうしたら、他人に興味を持てるのだろうか。

 

先日、エレファントカシマシのボーカル、宮本さんがテレビに出ていた。ゲストのコメンテーターとして出演されていた。エレファントカシマシは昔から聴いていて、大学時代が1番聴いていたと思う。だけど、宮本さんがどのような人であるかはあまり知らなかった。初めてテレビで話している姿を見たのだが、自分と関係のないことには全然興味を持つことが出来ないと言っていたのが印象的だった。確かに、他の出演者たちが議論を交わしているなか、宮本さんも一応、聞いているような素振りをしているが、本当に興味を持っていなそうな顔をしていた。


この感覚は自分もよく分かる。
直接的に自分と関わることでないと、少しも興味を持つことが出来ない。
いや、多少関わっているだけではダメであり、自分から積極的にその情報を受け取りたいと意識が向いない限りは、どんなに簡単な単純な話であろうとも、記憶に残せないし、そもそも覚えようという気にさらさらなれない。

割り切って行動を取ることが出来る人々が世の中には多くいるのに、自分はなぜ出来ないのだろうと疑問に感じ続けていた。

自分は、発達障害なんじゃないかとか考えたりもした。
他人にも興味が持てないので、名前もなかなか覚えられないし、そもそも覚える気にならない。
誰かに何かを教わっても、話を聞きながら理解して、それを暗記していくという作業とか本当に不可能に近い。
これも他人に興味が持てないからだと思う。
そして、そもそも話を聞いている段階において、興味がマイナスくらいの状態であることが多いので、全くもって頭に入ってこない。
メモしたり、資料にマーカーや書き込みをしている時も、ただ作業的にやっているに過ぎないので、理解は一切していない。
あとで少しやる気になった時に何回か読んでみて、ようやく理解出来てくる。
なので、最初から紙だけ渡してくれよと、いつも思っていた。

もうこれは治しようが無いし、これからも興味が持てないままだろう。それこそ生きてようが、死んでようがどうでもいい。