思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

インターネットから産まれる孤独について。

深く突き刺さる孤独について。

インターネットにより個人間の距離は縮まり、常に他人を意識することが当たり前の生活となった。
誰が何を考えているのか、何をしているのか、互いに監視し合うシステムが確立されてしまい、完全なる1人の空間を作ることが困難となった。

通信連絡アプリからはグループチャットの会話内容が流れ続けてくる。
短文を投稿出来るSNSからは不特定多数のひとり言が流れ続けてくる。

インターネットを遮断しない限りは、パーソナリティスペースに他人が入り込んでくる。

別に見る必要もなく、知る必要性もない。
それなのに、絶え間なく入ってくるその情報を見てしまう。

それにより、孤独が深くなっていく。

深い森のなかで暮らす人間は、孤独を覚えることがない。
そこには、端から他の高知能生物が存在していないことを理解出来ているからだ。
無い物を欲しがることもなく、無いものを探すこともない。

だがそこにもし、インターネットがあったならば事情は変わってくる。
1人を強く意識することとなる。
街では、こんなにも楽しそうなパーティーが開かれているのか。
こんなイベントが開催されていたのか。

目の前の生活に集中することを妨害するような情報が入ってくる。
他人と自己を比較してしまうような仕組みがそこにはある。

世の中には、2世帯住宅で暮らしている夫婦がいる。
親夫婦と子ども夫婦で暮らしている家族形態のこと。

いつでも会えるように、もしも何かがあった際に互いに助け合えるようにとの配慮からこの住居システムを利用している人々。

だが、この形態が1番孤独を感じやすくもある。

四六時中、親から監視され介入されることを好むはずがない。
ましてや夫側の両親との2世帯住宅であれば、妻は結構なストレスを抱えることになる。

壁一枚のすぐ隣にいながらも、距離を取ろうとする。
距離が近ければ近いほどに、心は遠くにある。
この境遇が、最も深い孤独になる。

もとから、すぐには会えない長距離での暮らしであれば何も感じえない。
会えないのは物理的問題あるから諦めもつく。
会おうと思えばいつでも会える状況下での疎遠が、特別な苦しさを産む。

インターネットも同様のことである。
スマートフォンを利用していると片手に収まるサイズのなかで、他人の情報を受け取ることが可能となる。
すぐ側にあるように感じてはいるが、そこに自分は介入しておらず、自分を抜いた状態でも何の滞りもなく物事は進行していっている。

今ではインターネット抜きの生活なんてものは考えられない。
現に、いま私が文章を書いて他人へ見せるために利用しているのもインターネットがなせる技だ。

必要不可欠なインフラとなってしまったが、その取り扱い方を意識しておくことが大切だ。
距離感を間違えてしまうと絶望や孤独を深める。

ネット上における自分の場を奪われてしまったがために、無差別殺人を起こしてしまった事例もある。
人間の悩みの99%は、人間関係だ。

人は誰もがみな、孤独を胸の内に抱えながら生きていかねばならない。
それをどう融解させていくかは個人のなせる技である。