思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

質問できる人は得をする。

どうも、あびこです。
生きてます。

質問したり、お願いすることができる人になると人生がうまくいきやすいかなとおもいます。

質問する勇気

人に質問することが苦手な人は多い。
こんなつまらないことを聞いたらバカと思われるんじゃないだろうか…。
そもそも全然交流がないのに急に話しかけてもいいのだろうか…。
必要以上に相手にどう思われるかを気にしてしまっていては質問なんて出来ない。

頼む勇気

質問することと近い。
誰かにお願いすることの勇気も大切。

あつかましいと思われてしまう。
面倒な奴だなと思われるてしまう。

思われた時は思われた時って、割り切っておいたほうがいい。
悩んでウジウジする時間がもったいない。


訊くのは(無料)タダ

ダメと言われたらそれはそれで。
質問しただけでお金を取られるわけじゃないから、どんどん聞いてみたらいい。気になることは。
自分がほしい答えを知ってそうな人に直接訊ねてみるのが一番の近道。知っていなさそうだけど、聞きやすいからとの理由で訊ねたりするのは基本的に時間の無駄。

勇気がない人がほとんど

反応を恐れて話しかけらない人がすごく多いなと思う。どうなんだろうって言いづける間に直接質問したらいいのにと僕はよく思う。相手を不快にさせたり、傷付けるだけの質問以外ならもっと気軽に声をかけていけばいい。
人は頼られたがっているし、必要とされるとすごく嬉しい。
自分の存在価値を認められた、という感覚になる。

自分も人に話しかけるのは怖かった

かつての自分は人の目をめちゃくちゃ気にするほうだったので、とてもじゃないけど話しかけられなかった。嫌われたらどうしようみたいな気持ちをよく持っていたし。

言わなくて後悔するより、言って後悔のほうがいいなと考えるようになってからは、気軽に発言するようになった。

有名なナンパ師の人がナンパの成功の秘訣は、とにかくどの女の子にでも声をかけ続けることと言っていた。
それと同じじゃないかな。少し違う気もするが…(笑)


「いい質問」が人を動かす

「いい質問」が人を動かす

めんどくさい人とは話さなくて良い。

どうも、あびこです。
お久しぶりの更新。

Twitterは毎日見てますし、まあまあ書いていたのでネット社会から完全に消えていたわけではないです。
ブログに書くまでの気持ちが出なかっただけで。

今回は、「面倒な人とは無理してまで話す必要はない」ということを書きます。



気を遣わなければならない相手について

話す内容をひとつひとつ気にしないと面倒なことになる人っていますよね。

相手が目上の人で礼儀を重んじなければならない場合を除いては、無理して付き合っていく必要はないかなと思います。

「なんだかコイツは話しにくいな」

とか、

「返答がなんだがおかしいし、あまり気が合わないな」

と感じるのならば、友だちをやめても問題ないですね。

そもそも友だちじゃない

これを言ってはいけない、あれを言ってもいけない。
と、常に相手のご機嫌を伺いながら接しなければならないようであれば、それは友だちじゃないですね。
相手が喜ぶことや持ちあげることだけを言わないといけないような人って、ちょっとヤバい系なタイプに属しています。
本人はまったく気付いてない場合が大半で、そのヤバさにまったく気付いてない人たちも割とヤバめでして…。

なんかこの人は違うなと感じたら、避けてよい

「めちゃくちゃ疲れる」
「あまり一緒にいたくない」

と、感じるようであれば確実にあなたは精神的に無理してますよ。
密室に2人だけで閉じ込められているわけじゃないのなら距離を取りましょう。

人を嫌いになることは罪ではないですし、嫌われることも全然悪いことじゃないです。

他人を嫌うことに罪悪感を覚えてしまう人もいますが、思い込みですよマジで。

何をしていても一定数からは勝手に好かれる反面、一定数からは嫌われます。

どんなに美貌を持った芸能人でも嫌われたりしているわけで、一般人の我々が嫌われることが無いなんてありえないですよ。

八方美人はウソくさい。

僕としては八方美人で、誰からも愛されてますアピールが強めの人が1番気持ち悪いなと感じてしまいます。
嫌いなものは嫌いといえばいいですし、嫌なことを嫌と言えずに生きても辛いだけですよね。そういう我慢が好きな人もいるにはいますが…。

と、「面倒な人とは無理してまで話す必要はない」について書きました。


相手に調子を合わせて話し過ぎたり、興味がまったくないのに興味あるフリして関係性を続けることは互いに毒です。
気を遣ってもらっていることに気付かないヤバい人たちは放っておきましょう。

頑張りすぎると逆恨みをしたくなってきます。
こんなに献身的になっているのにとか、コイツは少しも恩義を感じないクソ野郎だなとなってしまいますので…。
相手もこちらが態度を急変させてしまいますと、「なんだか様子が違う」「裏切り者め」みたいな感じになります。
無駄な時間を互いに過ごさないためにも無理をしないのが1番です。

マンガはずっと同じメンバーで進んでほしい。

マンガではなるべく主人公たちだけが永遠に出場していてほしい。
『働かないふたり』ってマンガ面白いと思っていたけど、キャラが増えてきたので3巻で読みやめてしまった。

決まったメンバーだと話の幅に広がりを出せないから、少しずつキャラが増えていくことは仕方ないことだとは思う。単純にネタが尽きるというのもある。
新キャラが出てくるたびに主人公たちが遠くに感じ始める。読者という立場で最初から主人公たちを見ていたのに、後から出てきた登場人物たちと仲良くなっていく様がどうもダメというか。
なので、マンガを純粋に楽しめるのは1,2巻だけかもしれない。
こんな変な考え方はあまり伝わりそうにないな。

この新キャラが苦手意識というのは、リアルでも少しは当てはまる部分がある気がする。
参加してたコミュニティに新キャラが増えていって、いつのまにか新キャラたちがわりと中心メンバーぽい振る舞いになったとき、どうもダメになった気がしてしまう。
そう考えるとわりと閉鎖的なのかもしれない。
あまり人にこだわりを持たないし、基本的には人に関心がないのだけど本当は気になっているということなのか。

顔なじみのメンバーだけで集まってる飲食店とかそんな人が多そうなイメージ。新参者をあまり望んでないような。何度かそういう店に足を踏み入れたとこがあるけど居心地の悪さを感じた。


少数メンバーでずっと進んでいくマンガは偉いなと思う。おわり。

昔の生活をたまに思い返す。

これまでに住んだ街のことをたまに思い返す。

あの頃はよかったとか戻りたいとかを思うことはないが、ノスタルジックな気分にはなる。

たまに食べに行った飲食店や買い物をしたスーパー。立ち読みしたり買ったりした本屋。DVDを借りに行ったTSUTAYA。なんとなくふらついた公園や神社。
そんなものを思い出す。




生活のルーティンはだいたい固定されていく。

いつか食べに行ってみたいなと思っているお店よりも、何度か食べに行ったことのあ
るお店ばかり結局訪れてしまう。あとはマックやケンタッキー、サイゼリアみたいな何処にでもあるチェーン店。
人は馴染みのあるものに惹かれてしまう。
新しいことを始めるのにはエネルギーが要るし、不安要素もある。
だけど、知っていることや経験したことについては余計な気力を使う必要がない。
だから油断していると同じような日々を過ごしてしまう。
それこそスーパーひとつとっても、同じルートで歩いてしまうし、いつも同じ食品ばかりを買ってしまう。
いくらでも選択肢はあるはずなのに、今自分が選んでいるものが"ベストに近いはず"という錯覚すら引き起こしてしまう。
当然、何も考えなくて済むということも理由にはある。人はなるべくは怠けたいし、楽な方を選びたがる。


意志の力に頼るっての本当に無駄なことだから、環境を変えてしまうのが手っ取り早い。

日常を変化させるには、引っ越しや転職がいい。どちらもエネルギーは要るし、だいぶ面倒なことである。だけど環境を変えることで1度すべてを壊すことができるし、また新たな日々を過ごしていけるようになる。

これまでに何度か引っ越したが、その度になんだか少しだけ前の自分とは違うものになったような感覚がある。

海外旅行もそれこそ環境を変えるという意味では最高に良いものだけれど、お金も時間もかかるし結局は一時的なものなので、そこまで魅力的には感じない。
インドとか行ってみたいなとずっと思ってはいるけど。ボリウッド映画はよく観るので。



昔の生活を思い出してみたり、住んでた街をGoogleマップのストリートビューで観てみたりするのは楽しい。そんなこともあったなって。
でもまあそれまでというか、思い出して終わりというか。

また新しい場所に住んだり、人と出会ったり、仕事が変わったりとか色々とこれからも起きたりして生きていくのだろう。

以前ほどに知的好奇心がもうないので、わりと引きこもっていることが多いし、同じようなことをしてしまう。
そんなときは環境を変えていくしかない。

ぼくがこれまでに影響を受けた作家たち。

これまでに影響を受けた作家を羅列していきたい。

とにかくその人の考え方や手法を、自分のものにしたいと思わせてくれた人たちについて。

 

1.宇都出雅巳

 

 

 

宇都出雅巳さん。記憶術や勉強法、速読法について書かれている著書。

自分が読書や勉強を始めるきっかけになったお方。

本を読むことは苦手だったし勉強は本当にできなかった。

今でも勉強が出来るようになったと言い切れるわけではないが、どうやれば暗記できるかとか理解していけるかとかの学習方法自体にはある程度の自信がもてるようになった。

根性がないとかやる気やモチベーションが自分は低すぎるのだ、とか、記憶力がめちゃくちゃ弱いから仕方ないといった言い訳を自分にしなくなった。

宇都出雅巳さんの本に出会ってなかったら、今の自分は存在していないといっても過言ではないと思う。

速読もできるようになったし本当に色々と学ばせていただいた。

 

2.稲盛和夫

 

 

京セラや第二電電(現KDDI)などを創業し、日本航空(JAL)を再建した実業家。

稲盛和夫さんの本から人間力や仕事力について学んだ。

自宅の壁に稲盛さんの格言を貼っていたほどだった。

人並み以上の努力をしろ、人間として何が正しいかを考えて生きなさい、ひとつのことに打ち込むことが結果的にすべてのことを知ることとなる、といった言葉などを書き写していた。

辛いときや自分の生き方に自信を持てなくなったときには、稲盛さんの言葉を念仏のごとく小さくつぶやいて心を沈めていましたね。

 

3.成毛眞

 

 

日本マイクロソフト社の元社長。

成毛さんの「こだわりを一切もたないことをこだわりとして生きる」という考え方にひどく感銘を受けた。

始めたことはずっと続けなければならないという呪縛からも脱することができた。

興味の移りゆくままに、その時はまっていることをどんどんやっていきなさいという主張にはとても心を救われた。

また、成毛さんのおかげでノンフィクションジャンルの本の面白さを知ることができた。

現実は小説よりも奇なり、とは本当なのだなと痛感させられた。

本は10冊同時に読みなさい、本を読まない人はサルである、といった言葉には刺激を受けた。

自分の興味の幅、知識量を増やしてくれたお方だ。

 

4.椎名誠

 

 

日本で1番有名なエッセイスト、旅行家。

10代の頃に『岳物語』を読んだことはあったが教科書に出てくるような文章を書く人というイメージしかなく、読書の対象とはしていなかった。

大人になってから椎名誠の本の面白さを知り、椎名さんの本は多分100冊以上読んだと思う。

ぼくはほとんど海外には行ったことはないけれども、椎名さんのおかげで世界の文化や面白い風習を知ることができた。自分ではとうてい行くことのできないような辺境の地などの話を読んでワクワクさせられた。

世界の広さや、自分の視野の狭さを知ることができた。

 

5.pha

 

 

元日本一有名なニート。現在は文筆家として活躍。

phaさんのおかげで仕事や人間関係のストレスから解放された。

お金を遣わなくても楽しいことが世の中には沢山あるのだということを知ったし、

~しなければならない、といった思い込みや強迫観念から脱することができた。

また、文章を書くことの面白さや読むことの楽しさ教えてくれた。

phaさんの本に出会えたことで自分の生き方の軸が定まったなと思う。

 

6.中島らも

 

 

小説家、エッセイスト。

酒に酔って階段から転落し、頭を打って亡くなられてしまった。

自身の作品に負けないくらい破天荒な方で、これぞ作家だと感じさせてくれるお方だった。自分が存在を知ったのは亡くなられたあとだったので存命中から作品を追ってきたわけではないが、中島らもの文章のあまりの面白さにほとんどの著書を読み倒した。

アル中だしドラックもするわでめちゃくちゃな生活をしていたけど仕事にはとても真剣な方で、それこそ死ぬほど働かれていたようだ。

何を書くにしても資料をきっちりと集めて、読み込んで、最後までストーリーを頭のなかで完成させてから書き始めていたと聞く。

中島らもの言葉で好きなものがある。

「もし、あの時あちらの道を選んでいたら、という選択肢は存在しない」というもの。

その時、考え抜いてそちらを選び取ったわけで別の道はどうしても選ぶことができなかったはず。なので、そこに選択肢が他にあったように思えてしまえるが実は最初から一つしかなかったのだというもの。

これを読んで目の覚めるような思いがした。

なるべくして今の自分になっているし、他の自分なんてものは存在しなかったのだということ。今の自分に自信が持てるようになった。

 

 

本は読めば読むほどに、自分の先生が増えていく。

本を読むことだけが人生のすべてではないけど、本を読むほうが人生には彩りがでる。

人を深く知るためにはその人が書いた文章を読むのが一番だと思う。

そうなると本を読むことでその人を理解することができるし、その人が生涯で学んだことを知ることができる。

ここまでに紹介してきた6人以外にも自分の先生となった作家は大勢いる。

自分のなかに何か特別な感情を持てる作家に出会ったのならば、その人が書いた本は全て読んでしまうといいかもしれない。

 

ケンカをしても終わりではない。

ぼくは恋人との喧嘩は終焉を意味することだと思っていた。


例えば喧嘩が増える。
嫌な感情のぶつけ合い、いがみ合い。

喧嘩はマイナスにしか2人の関係に作用せず、溝を作っていくものだとばかり。



妻と出会い結婚するまでは、ぼくは喧嘩はすべて避けてきた。

避けてきたというよりも衝突が起きるようになってくると
「これはもうダメだな。考え方や感覚が違うということだ。もう終わりにしてしまおう」

フェードアウトというか自然消滅的に関係を終わらせていた。

はじめて喧嘩と向き合う

そもそも喧嘩になれば、相手と顔を突き合わせて互いの意見や主張を伝え合うことが、とてもしんどくなる。

なにも話したくなくるというか、
「話すことはない。話してもムダでしかない」
と考えてしまいがちだった。

言い合いなんて、誰でも避けたいに決まっている。

妻は逃げない人だ。
話し合わないと意味がないと言う。

付き合った当初などはその意味が分からなかった。

今はだいぶ分かるよなった。
喧嘩と向き合うようになったから。

喧嘩は終わりではない

喧嘩は終わりじゃない。
感情の赴くままに、相手に暴言を吐き捨てたり嫌味を言うだけだと意味はないだろう。
無理に議論しろまでとは言わないが、話していけば少しずつ前に進んでいける。
相手に言葉で伝えていないことは理解してもらえるはずがない。

なにも言わなくても分かってもらえるはず、だなんて考えは捨ててしまってほしい。

喧嘩をして相手への理解は深まる

相手のボーダーラインが分かっていく。

触れて欲しくない話。
許容範囲。
倫理観。
人生哲学。
思想。

その人を構築しているものが見えてくる。
予測だけではたどり着けない。
話してみなければ分からない。


人を理解するためには実際に会話して交流しなければならない。

自分の臆測のみで、その人物を作り上げてはいけない。


喧嘩をしろというわけじゃない。
だけど、喧嘩を悪く考えなくてもいい。
起きてしまったことはしょうがない。
その先をどう作っていくかは、自分の考え方次第。

人に期待しない、自分にも期待しない。

人に期待なんかしないほうがいい。
期待してしまうと精神衛生上よくない。


無駄な怒りの感情が発生したり、裏切られたと感じることさえある。
すべては勝手に自分で思っていること。

自分のなかで作り出した幻想に過ぎないのに苦しめられる。

若い頃は、期待ばかりしていた。


歳を重ねるにつれて

「自分は自分。人は人」

がうまく染みてきた。

自分にも期待しない

だが、最後の希望。それは自分。
そこへの期待はずいぶんと高めに持ち続けてしまった。

限界を作ってしまうことはよくない。

「やろうと思ってやれないことはない。1人でも出来ている人がいたらそこに可能性はある」
そう考えながら生きてきた。

しかし、自分を苦しめる結果しか招かないような期待はやめたほうがいい。
自分を厳しく律し続けてきたこともあった。わりと甘やかすことなく過ごしてきた気はする。弱い心に負けないようにと。

精神論で戦うことのストレス

「オレならできる。できるはず!」
で、辛い毎日を過ごしてしまうくらいなら、
「まあしょせん、こんなものでしょう」
で生きるほうが良いのかもしれないと思うようになった。

若い頃の無限の可能性とでもいおうか。
まだオレはなんでも出来ると無駄に頑張っていた。
もうそれなりに歳を重ねてきたので、その無限の可能性みたいな幻覚に惑わされることが減った。

必要以上の期待をしなくなった。

人は好きなことしかできないし、
楽しいことしか頑張れない。

興味のないことは頭に入ってこないし、勉強する気になれない。

お金のためだけに生きることは自分の価値観とそぐわない。

誰とでも仲良くしなくてもいい。
興味の持てない相手には挨拶だけしていたらよい。

自分だけで考えたり実行することは効率悪く、負荷も多い。
出来ないことやしたくないことは人に任せる。

誰からも好かれるように、なんて考えなくていい。
嫌われてしまってもよい。


自分はたいした人間じゃない。だから知らないことや分からないことばかりでもいい。気になることは勉強したらいい。



人にも自分にも期待しないように生きる。
期待するから疲れるし、怒ってしまう。