どうも、あびこです。
人はひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいくしかない、という話です。多分。
世間的にみればどうでもよいことに熱中し、普通の人たちが興味を持つことや反応を示すことには少しも心の針が動かされない生き方を選択していると、ズレが強く出てくる。
そのズレを修正する必要もなく、どんどん突き進めばよい。そもそも人に理解してもらおうとする選択は誤り。人は理解し合う必要もなく、その違いを感じながら過ごせばよい。
その違いやズレが孤独感を生み出す場合もあり、その寂しさを埋める意味で、インターネットの世界で顔も知らない相手と繋がることが重要であるとの話はこれまでに幾度も語られてきた。
しかしそこもまた、結局は孤独を強く生み出す装置にしかならないのではと感じる。
似た性質の人たちが集まれば、個の主張を強くせざえるを得なくなってくる。
その場においての"普通"となるから。
結局はマイノリティになってしまい、その場での新たなマジョリティは孤独を覚えてしまうのだ。
人はひとりではいきていけず、どこかに心の拠り所を求め、自分の言葉を受け止めてくれる相手を探し続ける。
それが恋人であり配偶者というものに集約されてしまう場合が多数だろうが、"絶対に理解し合える存在であるはず"という呪いが強く苦しめることとなる。
いくら家族となろうともそのズレの修正は難しく、あくまでも他人であることは紛れもない事実であるのだ。
人はどこまでいこうとも結局は孤独であり、自分を自分で認めて生きるしかない。
己の孤独を理解し、支えることができるのは自分自身以外の何者でもない。