思考拡張日記。

日々感じたこと、学んだことを文章にしています。

自分に合う生き方や場所を見つける。

無理なことは永遠に無理で、好きなことや興味のもてることしか頑張れない。

 

この性質からは逃げきれる日が来ることはないなと歳を重ねるごとに実感する。

 

頑張らなきゃこなせないことや、おもしろいと思えないことをやっていても仕方ないし、人生を棄てている感覚が強くある。 

 

他人と比較することは非常に疲れるし、不特定多数の相手にいい顔をしたり無理に会話をするのはひどくストレスでくたびれる。本心で話せていることなんてほぼないし、その場でただその時に適した発言とキャラクターを作っているにすぎなかった。

30歳を過ぎてからはその努力もほぼしなくなってしまい、どういう風に捉えられてももういいやと考えるようになったが。

 

どこに向かえばいいのか、何をすることが自分には合っているのか。

何かにはまって、どっぷりと身を沈めてみれば得られるものがあるんじゃないだろうと模索した日々。

何年間も毎日本を読んでみたり、毎日毎日アホみたいに映画を観たりして、知識を蓄えまくったら面白いことになるんじゃないかなと思って試したこともあった。

 

自分に合いそうだとか楽しめそうだと少しでも感じたのならば、量をとりあえずこなしてみようともがき続けた。

 

自分は仕事には全く興味がもてず、いつでも他のことに意識や気持ちが向く。

目の前のことをほぼ見ていないし、違うことばかりを考えている。

だからまともに人の話をきいていないし、なんとなくで答えてしまう。

 

それでいいんだろうなと思う。

 

無理に合わせる必要はない。

今の場所に馴染めないのなら少しずつズラしていけばいい。

ちょっとずつ形を変えていけばいい。

 

そう思う。

 

 

 

 

やりたくないことはやるな

business.nikkei.com

 

日本マイクロソフト元社長、成毛まこと氏が一貫して仰られている言葉。

 

「やりたくないことはやるな」

 

やりたいことが見つからないときは、まずはやりたくないことを考えろ。

消去法的に見ていけば、やりたいことが分かってくるという。

 

これは事実であると感じる。

 

自分の場合のやりたくないことは…

 

人に合わせること

ルールに従うこと

時間や裁量が完全に決まっていること

興味のないことを学ぶこと

集団で過ごすこと

黙って人の話をきくこと

納得のいかない規則を守ること

非効率的なこと

時間の無駄としか思えないことに従うこと

長時間、人といること

 

など、多数出てくる。

 

その軸にあるのは、人に従うのが面倒に尽きる気がする。

 

これらを省いたとき、自分のしたいことが出てくるのだろう。

 

 

仕事は苦しいものである、楽しくないことが前提という刷り込みのもとにこれまで生きてきた。だが、そうではない。

自分にあったものを見つけるとか、天職を探すという夢見物語を話すつもりはない。

しかし、精神的負荷を軽減することは可能である。

 

短期的に失敗か成功かを考えずに長期戦で挑めば、たいていのことは成功すると考えている。というか、途中でやめなければ失敗ではない。成功するまで継続していけばいい。

 

 

ダメ出しをする人や批判的な見方をする人を最初は周りに置かないほうがいいかもしれませんね。自分が気づかなくても周りに言われて「あれ、失敗したかな」と気づく可能性もありますから

 

冒頭に貼った記事中でも、成毛氏はこう語っている。

 

余計な心配などせずにとにかく今できることに全力で取り組んでいけばいいだけなのだろう。

 

生きていく、食べていくためのお金を最低限確保できさえすれば、あとはなんでもいいと思える。

 

 

人は突然死ぬし、後からどれだけ後悔しようと誰も助けてはくれない。

 

やりたいことをやるのが一番であり、やりたくないことを全て排除していけばよい。

 

生き方の選択

ある人物に陶酔し、思考や行動パターン

を真似て、素養を己に吸収させようとする期間は必ず訪れる。

その期間を経て人は成長していく。

 

「この人物は大変に素晴らしく、学びも多くある。彼(彼女)ほどの天才は他にはいない」

ぐらいに熱をあげることが、人生には幾度もある。

 

書いた文章、発言した言葉すべて追っていく。創作物すべてに触れていこうとする。

 

しかし、そのうちに少しずつズレが生じてくる。

この人はもう自分とは考え方や生き方が違うなと感じる日が来れば、もう振り返る必要はない。

 

 

 

生きていると、嫌なことに数多くぶち当たる。

不安で眠れず、心が壊れてしまいそうな夜を何日も過ごすこともある。

何日どころか何年も続くことさえも。

深夜にストレスの腹痛で目が醒めることも。

 

そんな時は、藁にもすがる思いとは正にこのことで、正常な判断ができれば決して頼るはずのない相手にさえも救いを求める。

 

それがいい方向に転がるか、どんどん堕ちていくかは時の運で、破滅一直線な場合もある。

 

だが、その経験や知識が人を形成し、その先へと進む力を与えてくれる。

その時の失敗や成功はどうでもいい。

より長期的な視点で観た時に判断したらいい。

 

痛みに鈍感で、頭を麻痺させて生きたらいいのではないだろうか。

周囲に気を遣いすぎ、常に自分の選択を殺して生きても何も楽しくはない。批判を恐れて無難な生き方をしたとしても、その先に納得した形の未来を手にすることは出来ないだろう。

 

 

 

 

怒りを抑える時間は終わった。

怒りを相手にぶつけなければならない。

 

我慢ばかりしてきた。

怒ることを抑圧し、自分の意見や考え、気持ちに蓋をし続けてきた。衝突を避けるために。

 

それが正しい行為だと考え続けていたから。

いや、思わされていたと言っていいのかもしれない。

 

忍耐不足だと思っていた。

もっと純粋に怒りを爆発させてしまっていいとは考えていなかった。

 

相手を傷つけることを恐れていたわけではない。

結局は向こうからの反応に恐怖を感じていたのだ。なんと言われるか分からない。どう刃向かわれるか。どう反論がくるか読めない。

 

自分が傷付くのが嫌だったのだ。

 

 

 

しかし、この33年ほど我慢に我慢を重ねたため我慢の限界はきた。

 

言わなければならない。自分は非常に怒りっぽく偏見と理不尽に満ちた人間であると伝えなければならない。でなければ、この苦しみから抜け出せない。

 

善人ぶり、何を言われても良いという姿勢は終わりだ。腹のなかで何人の人間を殺してきただろうか。

 

自身の怒りを収めるために人間関係を避けてきた面もある。

今から思い返してみれば、高校時代の自分は大いに怒りを抱えていたのだろう。

世の中の理不尽さを1番肌で感じ取っていたように思える。

何の自由もなく抑圧された環境。自分の意志や意見は完全に奪われ、周囲からの評価のみが絶対的価値観であった。

その理不尽さをきっかけに、怒りを上手く扱えるようになったのであればよかったのだが、、そうはならなかった。

心が折れたのみだった。

 

言いにくいことや、言ってしまい後悔することもあるだろう。

自分が絶対的に正しいと思えることはないだろう。だが、言わなければならない。

相手よりも自分のほうが正しいと少しでも感じるのならば、伝えなければ。

 

自分の父は怒れる男だった。

それを恥と感じていたが、今はわかる。

正しかったのだ。父を尊敬すべきだった。

 

これからの人生は、怒る訓練ですごしていきたいと思う。

 

 

哲学者、中島義道先生の名著。

これを読めば、価値観が変わること間違いなし。読まないとめちゃくちゃ損をする。

怒る技術 (角川文庫)

怒る技術 (角川文庫)

 

 

 

今すぐに出来ることを選択していくことでしか前に進めない。

いま目の前にある出来ること、やりたいことに全力でぶつかっていくことでしか前には進めない。

 

何をしたらいいか分からない、先が見えないというのならば、思いつくことから始めるしかない。

 

今すぐに出来ることに取り組んでいくうちに、出来る範囲は広がっていく。

慣れにより労力をあまり使わなくてよくなるから。

 

余裕ができたら他のことにも挑戦する気力も時間も増えてくる。

そしてまた、すぐに始められそうなことからスタートする。

その繰り返しに尽きる。

 

聞こえのいいことや、大きなリターンや成果をあげることに人は着目してしまう。

しかし、積み重ねでしか成長は得られない。

 

いつ手にすることができるか分からない報酬を待てるかどうかが大切だ。

 

ちょっとの労力や行動で始められることを選ぶ習慣が身についてから、こなせるタスクが増えた。

考えたり悩んだり落ち込んだりする時間は、ほぼほぼ無駄でしかない。

 

そのうち何かに繋がるだろうと気持ちを大きくもって取り組んでいこう。

 

 

 

 

人間嫌いになった理由。

これまで人に期待をしてきた。

 

その結果、絶望を繰り返し人に興味関心を失った。

 

真に人間好きな人は人間嫌いになるのが当然の成り行き。人間つまり自分にも他人にも多大な期待をしてしまう。自分からも他人からも裏切られ続ける運命にある。

結局はあいつもこいつも馬鹿ばかり。そして自分からがいちばんの馬鹿と結論は決まっている。

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

 

哲学者、中島義道先生の本に出てきた言葉が深く刺さった。

 

もとより、人嫌いであったわけではない。

かつては人と話すことや関わることが好きだった。

 

この人なら理解してもらえるのでは?

自分と感覚が似通ってそうだ。

仲良くなれそうだ。

 

などと、10代の学生時代は特に純粋に生きていた。

 

 

しかし、「違う」と理解するたびにひどく落ち込んだ。

また、そのように錯覚してしまった自分自身にも失望していた。

 

 

何もわかっちゃいない。

いつまでも同じままだ。

俺は永遠にバカなんだろう、と。

 

 

 

 

誰にも期待しなくなった。

一定の距離感を保つようになった。

 

自分を含め、人はバカでありつまらないものなのだと自覚した。

 

己の愚かさや未熟さ、至らなさに少しも気付くことなく他者だけを批判する。

自分の力ではどうにもならないようなことだけに目を向け、努力や考え方次第で変動可能なことに対しては目をそらす。

はなから諦め、何年経っても同じ愚痴を口にしていたりする。

バカなままで生きるしかない。

 

この世で信じられるのは自分自身のみであり、いかにバカでどうしようもなくても避けることはできない。自分から逃げることは不可能だから。

 

となれば遠ざけるのは他者となり、孤独のうちに生きていくことを選択するしかない。

 

 

 

 

個人的な趣味などはネットだけにとどめるのがいい。

自身の個人的な趣味や意見、面白いと思えるものなどはインターネット上に放出するのが一番ベストな解だと考えている。

まったく興味のない相手を捕まえて、無理矢理に話題を振ったところで嫌悪感しか与えない。

めんどくせぇな、うざったいな、といった苛立ちを覚えさせることとなる。

「こんなに愉快なんだよ!最高なんだから!」と、どうしたも伝えたいのならば、ブログやツイッターなりで書いて発表すればよいだけのこと。


しかし、書くとなればそれなにり下調べであったり、整合性を整えていかなければならず手間暇がかかる。
そのわずらわしさから逃げるために手軽さを選んでしまい、絶対的に話を聞いてくれる相手に向かって伝えたくなってしまう。


本当に好きなことならば地道な作業にも耐えることは必要であり、また、その工程により理解も深まる。



人に意見や感想、提案を求められた際に発することで知識や情報は役立つ。
単なる押し付けでは不快感のみを残す。